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影と実体

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秋の彩りが深まっています。しかし早い。もう2009年も終わりつつあるわけ。

さて、ヘブル10:1において、律法はやがて来るべき方の影であると言われている。旧約聖書はすべて御子がどなたで、何をなされ、何をなしてくださるか、そのキリストの諸スペックを述べた履歴書と言える。そこの提示された物、たとえば幕屋、神殿、祭具、供え物、儀式などはすべてキリストが実体(リアリティ)だ。この方を抜きにして旧約を読んでもそれは堅苦しく、苦痛だけだろう。しかしかのレビ記でさえ、キリストにあって読めば、実に味わいのある甘い書なのだ。

さらに、誤解を恐れずに言えば、森羅万象、世にある物はすべて影と言える。どなたの?もちろん万物の始祖にして、創造者、そして贖い主なる神たる方の、だ。ローマ書に「世界が造られた時から被造物において神性は明らかに知られている」とあるとおり。BIBLE Q&Aにおいて「この世」とは何かと質問がある。この方が懸念されるとおりの意味であれば、私などは堕落の極み。世にまみれてどうしようもない者なのだ。いや、確かにそのとおりなのだが・・・。

ヨハネ書簡を読めば明らかだが、「世を愛する者は神を愛していない」とあるとおり、世は神への愛と対立するモノ。この命題の対偶を取れば、「神を愛する者は世を愛していない」となる。よって自分のうちには神への愛があるだろうか?と問えばよいのだ。つまりそれぞれにとっての世とは、神の愛を無にするものであって、一律にこれは世のもの、あれは霊のものとカタログを作るものではない。

たとえばワーシップ。神を賛美することは私たちにとって気持ちの良いものだ。しかしそれ自体が神への愛に優先するならば、ワーシップは世のものだ。あるいは奉仕や伝道。祈りすらも同じ。それ自体が目的化され、それ自体が神を排除するならば立派な世である。その究極はラオデキアの教会。なにしろ主ご自身が外へ追い出されているのだ!?人の意見で喧喧諤諤。しかし主はどこに?実はこれがニッポンキリスト教の現状だ。昔流行したWWJDはどうなっているのでしょう?

逆に言えば、あらゆる事象は主を知ることのできる影(タイプ・型)ともなる。自然を愛でて、創造の素晴らしさに浸り、空の鳥を見て主の配慮を思い、野の花を見て主の御心に触れる。都会のビル群を見て、人間の能力に感動し、それを造られた神の能力に思いを馳せる。人は神の形に造られたのであり、何ゆえに神は・・・と。酒を飲んで、その芳醇な味を楽しみ、魚を食べて、その旨さに感動しつつ、それを備えて下さった神の意図を思う。もちろんYAZAWAも、温泉も。その意味で私はあらゆる事を楽しんでいる。すべてはキリストの影だから。

結論を言えば、キーワードは「イン・クライスト」。宗教ではなく、いのちの道を生きること。「生きることはキリスト」とパウロが言うとおり。問題はこちらの心のあり方次第。心の中心が何によって、どなたで占められているか。世に対する勝利はイエスを神の子と信じることによるのです。

清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。

「イン・クライスト」についてはSugar氏が最後の晩餐における主の言葉を説いて下さっています(→天地の人)。

追記:富井氏のサイトに興味深い文章が紹介されています。明治天皇のご息女仁氏の子息である皇族系牧師小林隆利師の証言として、明治天皇は天皇の権限で神道のルーツを調査し、それがユダヤ教であることを仁氏に告げていたとのこと。さらに幕末に活躍したフルベッキの行状を詳細に述べています。ファイル 1153-4.jpgこれは面白い。最近ではリチャード・コシミズ氏までもが日ユ同祖論を展開しております。ちなみにこの写真は謎が多い、いわゆるフルベキ写真と言われるもの。幕末の志士たちが、尊皇攘夷派も討幕派も一同勢ぞろいしている場面です。
『幕末維新の暗号』紹介

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