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この世では十字架に行き着くが・・・

Salt氏が山崎豊子作品について面白い記事を書かれている。彼はこう言う:

この世においては、正義の道は必ず十字架に行き着く。しかし、キリストともに死ねば必ず復活が約束されている。信仰がない人たちにとっても、原則は同じなのである。

彼は言う、「この世においては・・・十字架に行き着く」。が、私的にはあえて付け足したい:「ニッポンキリスト教界においては(なぜか)十字架に行き着かない」と。よって死がなく、よって復活がない。延々と下手な化粧を塗り固めるだけだ。これはニッポンキリスト教の昨今の状況を見ていればよく分かること。いずれこれらの化粧はひび割れ、地肌(病理)をさらけ出す。

・・・と言うより、すでにさらけ出しているではないか、闇と病み。加えて狂気。彼ら自身の言葉で。ただそれが見えている人々はさほど多くはないと言うこと。偽りの上塗りが巧みな人々は実に多い、というより、それができる人々が生き延びるわけなのだ、このギョウカイでは。

一方で、それが見えて、そこにいること自体が苦痛となり、ただ主に従ってエクソダスする人々がひとりまたひとりと起こされていることも事実なのだ。クリスチャン(エクレシア)よ、キリスト教(会)に縛られることなかれ。キリスト教なる宗教から離脱せよ。いずれにしろ各自の心が露にされ、篩い分けられる時代に入っていることに気がついた人は幸いである。

Comment

sasuke

Lukeさん、ご無沙汰しております。フィードは欠かさず、読ませていただいております。教会からのエクソダス。最近まで、この意味がわかりませんでした。十字架も、わかっていたつもりになって居ただけで、本当は分かっていなかった。山の方との出会いを通して、ようやく、深く、深く、理解することができました。
いつだったでしょうか、キリストの命の交換力、というLukeさんの記事を読んだとき、自分が生きているのは、キリストの命だ!と大発見し、大喜びだったことを思い出しています。それでも、まだ、あの時の自分は、十字架の死とひとつとされたこと、そして、復活の命が現れ、今やキリストとひとつである、ということにまで、思いが及んでいませんでした。真理の核心にまで、至ってはいなかったと思います。今、十字架の死と復活がわかり、それ以外のものが、すべて神に忌み嫌われるものであるということにも、得心しています。
神が喜ばれることは、人間の活動ではなく、信仰であり、交わり(エクレシア)によって現されるキリストであることが、わかりました。キリストこそ、全宇宙、この時空のなかの唯一の宝です。白く塗った墓の中にあるものは、神の喜ばれるものではない、今、そう思っています。

Luke

素晴らしいことです。真の十字架が経験できること。実はその命の交換が起きたときに、すでに十字架は働いていたのですね。ただ自覚というか、認識がなかっただけです。内なるいのちが躍動することは、すなわち死を経て、復活を経験しているのです。それは十字架を経ているのですね。エクレシアはここがその存在のすべての根拠です。キリストご自身とキリスト教の違い、エクレシアとキリスト教会の違い、これらが分かることは解放です!共にますます追求しましょう。

  • 2009/12/03 18:58
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エシュコル

アーメン。sasukeさん良かったね。ますますいのちをエンジョイし、死と復活を知り、さらに体験をお互いにしましょう。ハレルヤ!!

  • 2009/12/04 00:20
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sasuke

Lukeさん、エシュコルさん、ありがとうございます!十字架と復活を知ることは、本当に、素晴らしいです。「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。」という聖句を連想しました。ハレルヤ!

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