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Dr.Lukeの一言映画評と本日の一冊

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ジョニー・ディップ主演の『パブリック・エネミーズ』。

舞台は大恐慌後の1930年代前半のアメリカ。鮮やかな手口で銀行から金を奪い、不可能とも思える脱獄を繰り返す世紀のアウトロー、ジョン・デリンジャー。利益を独り占めする銀行を襲撃する大胆不敵な犯罪行為、強者から金を奪っても弱者からは一銭も奪わないといった独自の美学を貫くカリスマ性に、不況に苦しむ多くの国民は魅了され、まるでロックスターのようにもてはやした。そんなデリンジャーとって、一人の女性ビリーとの出会いは、これからの人生を決定付ける運命の瞬間だった。ビリーもまた危険な選択だと分かりながらも、彼の強引で一途な愛に次第に惹かれていく。一方で捜査当局は、デリンジャーをアメリカ初の“社会の敵ナンバーワン(Public Enemy No.1)”として指名手配する。捜査の包囲網が徐々に彼らを追いつめていくなか、永遠の愛を信じながら、二人の自由への逃亡劇が始まった…。

このビリーとの愛情を巡ってストーリーは展開し、途中、ダイアナ・クラールが登場したり、クラーク・ゲーブルの『男の世界』が上映される。その主人公の最後の台詞「バイバイ、ブラックバード」と自分を重ねるジョンが迎える最期の場面。ジョンを撃ち殺したFBI主任捜査官は後に自殺。それぞれの人生の幕が閉じられた。

さてここで問題は、後に自殺する主任捜査官によって、デリンジャーは「パブリック・エネミーNo.1」と指定された。ところがこの映画のタイトルは定冠詞なしの「パブリック・エネミー」だ。もしデリンジャーのことを言うのであれば、「・パブリック・エネミー(単数形)」であろう。すなわち監督のマイケル・マンの心にある真の「社会の敵たち」とは誰か、との問題提起がなされているのだ。例の911事件の際、「・パブリック・エネミー」とされたのはビン・ラディンだった。しかし実は未だ特定されていない真のパブリック・エネミーがいるのだ。お分かりだろうか。マイケル・マンが提起した問題意識。きわめて今日的な課題である。

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今後下手をすると、アメリカ社会は預金封鎖や内戦・戒厳令発令などで確実に崩壊することだろう。今はまだ米国債を保有している国々がそれを避けようとしているが、カウントダウンは開始されている。そのとき、真のパブリック・エネミーはどこにいたのか、誰だったのか、大衆が理解するだろう。が、時はすでに遅しなのだ。真の敵は思いがけない相手であることはよくあることなのだ。いずこにあっても、真の敵を見抜けないことは、結局自分を滅ぼすことになる。

ジョニー・ディップはやや病的な傷を持つ役を演じるのが実に上手い。しかもデリンジャー本人とよく似ている。

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ファイル 1182-2.jpg本日の一冊。安本美典著『新説邪馬台国-天照大神は卑弥呼である』。同氏は計量言語学の専門家で、数理統計学にも長けている。以前から彼の研究はフォローしていたが、今般その総まとめとも言うべき本書を著した。数理文献学の観点から最近確実視されている邪馬台国機内説を覆す。これでまたこの冬眠の時期を楽しむことができそうだ。

邪馬台国の会(安本氏主催の研究会サイト)

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