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年賀状に想う

年賀状をとおして遠く離れている人たちの状況を知ることができるのはこの時期の楽しみの一つではある。ところが、毎年のように種々の病に罹る友人もぽつぽつといるのだ。今年もひとり、20年以上の付き合いのある友人が、ガンを切って第二の人生を始めた、と書いてきた。うーん、とやや思いにふける次第。

今朝、Sugar氏とも話したが、地上の時間はいかに生きるかを考えるのではなく、いかに死ぬかを考える期間である。その日、どのような死を迎えるか、それを見つめつつ、神の前に日々生きること。その究極にウォッチマン・ニーのごとく、真に主に対して自分自身を無駄に注ぎ出すようにして地上を去ることができるならば、それにまさる幸いはない。死に備えて生きること。今年の課題となりそうだ。

引用:ウォッチマン・ニーの詩

「私が進むべき行程」から
少し横道にそれるだけで、唯それだけで、
私の命運は とても容易なものとなるだろう。
しかし、私は確かに知っている、
わが主は 何と過酷な行程を進まれたかを。

それ故 私はこの世を全く捨て去り 
その結びつきを 総て断ち切る。
私の行く道は なお狭きものとなり
世は総て 私に敵対して立ち上るであろう。

人々は 顔をしかめ、軽蔑してあざ笑うとしても
私は 主の笑顔のみを慕う、
ひとえに 彼の「よくやった」を願う、
地上のこの つかの間の時間の中でこそ。

偉大さを追い求めまい、
地上の栄光を追い求めまい。
ただ身を低くし 主にのみ仕えたい、
かの日、彼の誉め言葉を得んがために。

私は今 
「あの裁きの座」から来るその光を見つめる。
総ての私の生き方と働きが、
「かの火のテスト」に耐え得るために。

人々は総てをかけ
自分の成功を求め、栄光と富と名声を追求し、
自己の偉大さや 自分の追従者、
そして自身の栄誉を獲得しようとするだろう。

しかし私は
魂の中の繁栄ではなく、
ひどい孤独と貧困の中でさえ 
「彼」に忠信に従うことを求める、
あのゴールに到達するに至るまで。

私は知っている、地上におられた時 
主の歩まれた道は唯一つ 
あの十字架に向かう道であったことを。
それ故、私も彼と共に 
ただ損失をこうむることを願う。

総ての私の光栄は「かの前方」に備えられている。
それ故 ここで 私は総てを耐え忍ぶ。
主の御前において、主を差し置き、
今 自分の栄誉を求めることなど出来ようか。

しかし、来たるべきかの時、私は誉を賜るだろう、
主御自身 総て私の涙をぬぐい取って下さるという誉を。
それ故 今この時代 忠信に 私はただひたすら前に進む、
私の主が出現される かの日に至るまで。

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