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自殺者数3万人超

平成20年度は32,249人だった。すでに11年連続。ニッポンの自殺者数は世界7位。上位はすべて旧東欧圏。先進国ではNo.1。なぜか。自殺の病理は社会学者のデゥルケムの分析が有名であるが、霊的に言えば、その原因は高ぶりなのだ。今日も、株で500万の借金を作り、家族3人を殺して、自分も死のうとして死に切れず、男が逮捕された。これなどは究極の高ぶりだ。

統計的に言って、病者、特に人格障害者がニッポンキリスト教にはきわめて多いが、彼らは弱いからではない、強すぎるのだ。十字架を否定するほどに自己(セルフ)が強い。悩む人々はレンガのように強い人々である。その究極が自殺である。あまりにも強いために、霊的世界に裸で立ち向かう人々だ。弱い人は幸いだ。彼らは即座にキリストの死とひとつになり、主の御翼の影に逃げ込み、その保護の元、主の甘さと暖かさに慰めを得る。

そしてもっとも重要なこと:私たちはすでに死んでいる!故にもはや自殺する必要は無い。ゆえに自殺は十字架の業を全否定する。それは十字架に戻るとき実際となり、そこで解放を得る。自殺を考える人々は十字架を拒否する人、根底に甘えと不信仰が狡猾に隠されている。欺かれない人は幸いである。

人格障害という人々

追記:このテーマの霊的様相は、旧約のサウルとダビデ、新約のユダとペテロの命運の差をみてよくよく学ぶ必要がありましょう。鍵は、十字架ですが・・・。

Comment

クリスチャン

非常に励まされました。感謝致します。弱いのが問題なのではなく、強すぎるのが問題なんですね・・
本当にそう思いました。

  • 2010/01/27 11:57
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とおりすがり

ニッポンキリスト教、神学者、何でもかでも一刀両断気って捨てる。

しかし、苦しんで自殺した人の死体まで、足蹴にして、「甘えだ、不信仰だ」のさも全ての人の心を見透かせるようなことを言って侮辱までする、あなたはこの世の神ですか?

  • 2010/01/27 17:38
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エシュコル

通りすがりさん
あなたはまだ分からないみたいですね。
自殺された方々は何故自死という選択肢しかしなかったのでしょうか?
もっと他に幾らでも選択肢があったでしょう。

自分自身しか見続けていないからですよ。
自分自身から手を放せば幾らでも選択肢はあったのにも関わらずです。

しかしこれがなかなか難しい…まぁ、自身の道を貫いて下さいまし。

  • 2010/01/28 11:45
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clinic_HOT

大学生時代、知人のキリスト者の自殺(2件)があった者として複雑な記事ではあるのですが、腑に落ちた記事でした。
第1コリント人への手紙13章「愛は寛容であり、愛は親切です。・・・愛は自慢せず高慢になりません・・・」で、「愛」を「甘え」を入れると不自然になります。
逆に「甘えは自慢し高慢になる」と置き換えると自然。
自殺は「死んだ後も俺を忘れないでね」というダイイング メッセージと思います。やはりspiritualには病気。
遺された者が健全にいるためには、残念ながら間違ったメッセージを忘れる事でしょう。喪を服した者の実感です。

キリストの「自分を愛するように他人を愛しなさい」は、
「他人よりもまず先に自分を愛せ」という点 と、
「しかし『自分を甘やかせ』とは言っていない」点が 肝でしょう。
「自分を愛するように」とは、自我を増幅させることではない事を再確認します。
キリストなしで「生きよう」とあがくと「死」に至り、
キリストと共に「死ぬ」と「生かされる」。

映画「武士の一分」で「必死即ち生くる也」というセリフがありますが、ウム、近い。

  • 2010/01/28 17:18
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Luke

そうですね、確かにセンシティヴなトピです。自殺の根本病理は自己憐憫と言えるでしょう。また、おっしゃるとおり屈折した自己主張でもありますね。自分を真に愛することができる人は自己憐憫からは解放されているはずです。またあえて自己主張する必要もありません。

  • 2010/01/29 00:44
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zion

  • 2010/01/29 22:31
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イスチナ

肉の思いは死、霊の思いは命と平和です。自己憐憫や自死を願う気持ちは一旦人の心に入り込むと取り除くことが極めて困難ですが、キリストが人の心に来られて住まわれる時に、必ず除かれます。神にはそれができます。

死を願っておられる方は、せめて数ヶ月~1年間、最後の望みの全てをかけて、思い出せる限りの罪を徹底的に悔い改めながら、へりくだって、神を待ち望んでみて下さい。

心から本気で神に叫び求めて下さい。自分の惨めな状況をあるがままに認め、徹底的に悔い改めて、自分は正しいという気持ちも捨てて、ただ神に恵みと憐れみを求めて向き合うならば、神は必ず応えて下さいます。これは気休めではありません。人生のうち何十年間か、死を考えながら過ごした私も、神を待ち望むことによって、心に解決を得たのです。人を死から救える方はただ神しかありません。

  • 2010/01/29 23:30
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funky

しばらくです。
メッセージを聞く度、
記事を拝見する度に、ああ俺は人格障害なんだ...
ああ俺はビョーキなんだと...
自分のビョーキ加減にハッとさせられます。
悪化の一途をたどり、もう治る事はないでしょう。

我キリストとともに十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり。
これだけが慰めです。

  • 2010/01/30 11:51
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Luke

あ、これはおひさしぶりです。

ポイントは病識を持つことではないでしょうか。自己憐憫に落ちてる人は、自分のビョウキに気づかず、認めず、古い自己を握り締めて、それを手放したくない人ですね。セルフに未練を残すと霊的演歌になってしまいます。おっしゃるとおり内なるキリストだけが望みです。

  • 2010/01/30 12:42
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飛鳥

リンク先の「猫日記」の管理人です(^^;;。
>ポイントは病識を持つことではないでしょうか。自己憐憫に落ちてる人は、自分のビョウキに気づかず、認めず、古い自己を握り締めて、それを手放したくない人ですね。
 私は実際に10年以上目の当たりにしてきましたが、全くそのとおりだと思います。
 クリスチャンでも容易に陥りやすい「罠」です。
 でもそのときに、御言葉を、「主の御名において」自らに語るべきと考えます。

イングベイ改造

funkyさんに同感です。私もビョーキ入ってます。
”強さ”が抜け切れない面があります。
だから、振り返って自分の至らなさに
くよくよするのが相変わらずです。
そんな私が一線を越えないのも、
自分が崩されるための適度な試みが
あるからだと思います。

あるとき自分が崩れて、
十字架に帰れる瞬間が
いつも用意されているからだと思います。


”自殺をするのは、自己が弱いのではなく、強いためだ”というメッセは、残された家族の方々には酷なメッセかもしれませんが、今、危険にさらされている自殺予備軍の方々には光になると思います。

とおりすがり

おっしゃることは、この世の哲学としてはわかりますが。
あまりにまわりくどい。
自己というものを想定して、その自己が強いのどうのというなら、むしろ、まだしも仏教のように、自己などどこにもないと言った方がすかっとするでしょう。

何だか、自己が強いとか判断していること自体、自己を意識している自己としか感じませんが。

結局、愛がなければ、仏教のものいいの方がはるかにリアルでしょう。

  • 2010/02/03 01:44
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飛鳥

とおりすがりさんへ

>おっしゃることは、この世の哲学としてはわかりますが。
>あまりにまわりくどい。
>自己というものを想定して、その自己が強いのどうのというなら、むしろ、まだしも仏教のように、自己などどこにもないと言った方がすかっとするでしょう。

>何だか、自己が強いとか判断していること自体、自己を意識している自己としか感じませんが。

>結局、愛がなければ、仏教のものいいの方がはるかにリアルでしょう。

 ええっと……。
 自己がなくなるとどうなりますか?
 自分で感じ、自分で考え、自分で判断し、自分で行動する事ができなくなります。
 ここで語られている「自己が強い」というのは、もっと分りやすく言うと「自分にはまだ何かできるはずだ!!!! 」とか、「俺にはこれがある(あった)!! 」等の「自分の功績に根ざした存在意義」です。
 少しきつい言い方をしてしまうと。
 「神から見たら塵芥に過ぎない、『私』という存在が、「自分の功績に根ざした存在意義」を振りかざす事」と考えます。
 その「自分の功績に根ざした存在意義」から見ると、現在の自分を見た時、惨めに見えたら、人はどう思うでしょうか?
 おそらく「こんなはずでは……」と思うのではないでしょうか?
 その後に待っているのは「自己憐憫」即ち「こんな惨めな私は可哀想……」という思いでしょう。
 その最後の究極の選択が、「自殺」ではないでしょうか?
 時としてこの裏には、「こんな惨めな私を構って」という「自己主張」が巧妙に隠されています。
 クリスチャンとして大事なのは、この「自分の功績に根ざした存在意義」が神から見たら塵芥に過ぎないという事を知り、パウロの言う通り「私には何も良い物がない!! 」と知ることです。
 自分に何も無いのだ、ということを知ればどうなりますか?
 頼るべき存在は「イエス様」しかいません。
 自殺者にも似たような事がいえると思います。
 現在の自分の状況を見て、「自分の功績に根ざした存在意義」を振りかざし、その差に気づき、自己憐憫に浸り、その究極である「自殺」を選ぶのです。
 その前に。
 その思いを捨てて、今の状況で、まずどうすればいいのか、冷静に考えて、判断し、行動に移すこと――そうすれば、選択肢はたくさんあるでしょう。
 「自分の功績に根ざした存在意義」にしがみついて離れない――これが、このブログの筆者の言うところの「自己が強い」という意味ではないでしょうか?(間違っていたらスイマセン)
 そして「自殺」という手段を安易に選んでしまっているのでは?
 その流れに皆さんは流されていませんか?
 そのように問題提示をしているのです。 
 「自分の功績に根ざした存在意義」は色々と邪魔しますよ(^^;;。
 捨てれば楽になれます(^。^)。
 道化にもなれれば、「クマのプーさん」にもなれます。
 こっちのほうが人生楽しいですよ(^。^)。
 捨てられない人は……言わない!! 

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