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ニッポンキリスト教の悲惨、ここに極まれり

もう口にするのも・・・と言う感がある。Salt氏が「異なる福音に物申す」として、こう書いておられる。

極言すれば、その信仰は、教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだりすることでさえない。そういう習慣を積み重ねることが信じていることの証拠だと勘違いしているといつまでも自分に「信」を置くことになる。信仰とは、自分に絶望し、ただイエスに希望を見ることである。

ニーも同じことを語っている。これに対して私はこのようにレスした。

時代の風は明らかに十字架を否定し、セルフを高くする方向へ流れていますね。自分を堅く保って、自分に自信をおき、自分の才能を十分に発揮しなさい、自分に希望を置きなさい・・・と。世に媚びるニッポンキリスト教、悲惨も極まれりです。

セルフ教に落ちているニッポンキリスト教、超教派の倫理委員会を設置せよとか、嗚呼、信仰がすでに破船し、敗北しているではないか。それに気がついていないことがもっとも深い病理なのだ。共に沈没しないために、エクソダスするしかないでしょう?Am I right?

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