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十字架VS.宗教

今日、この世ばかりでなく、いわゆるキリスト教界と言われるとギョウカイでも、十字架を回避し、最近では意図的に対立する傾向が強まっています。ヴィオロンさんの記事は一読の価値があります。

世は、クリスチャンが、この世は罪定めされており、滅びが決定づけられているというメッセージを語っても、ほとんど反発しないでしょう。いくつかの宗教は、この世に希望がないことを認めています。しかしながら、私たちが、自分自身の生活において、キリストの十字架を実際に経験として知らなければならないと語ると、つまり、肉と魂をキリストの十字架において死に渡されて、自己を十字架で対処されねばならないということを語ると、どれほど大勢の人々がそれに拒否反応を示すでしょうか。

私は神学的見地からこのことについて議論しません。ただ一つ言えることは、暗闇の勢力が最も恐れるのは、そのようにして、十字架が生活において全存在的に実際となっているクリスチャンであることです。なぜならば、自己が十字架で対処されるという過程を経てのみ、神の命――生ける水の川々――は本当に、私たち自身の腹から外側に向かって流れ出すようになるからです。このようにしてキリストの統治をこの地上に実際としてもたらすようになったキリスト者こそ、この暗闇の主権者たちが、地上から何よりも消し去りたい存在なのです。

十字架がアクセサリーのキリスト教が宗教である限り、サタンにとっては何らの脅威ともなりません。それは大いに栄えるかもしれません。しかし、その中から十字架に目が開かれる聖徒が出ることを敵は何よりも恐れるのです。神学、教義、何とか運動、幸せになる聖書的方法・・・、あらゆるフェイクをもって十字架から人を引き離そうとするでしょう。先に紹介した大川氏のメッセージのように。主の憐れみによって目を覚ましていましょう。

追記:関連して救世軍の山谷少佐が「勝利者イエスについて」なる記事を書いておられます。果たして私たちの勝利とは何なのか?それは十字架の死と不可分なのです。

追記の追記:Candyさんがオズワルド・チェンバーズの言葉を引いておられます。いのちの充満について説いてくださっており、とても励まされます。

Comment

インギー改

大川隆法総裁の祈りの説教について紹介して下さったが、キリスト教の祈りにも問題を感じる。祈りの最後に「イエス様のお名前によって」という言葉を付け足せば祈りは届くんだという認識しかないんじゃないのと疑いたくなる今日この頃。主の名によって祈る祈りに、どれだけの十字架の主の完成されたものがあるのかを思う。主イエスは実際にそこで裂かれ血を流され、それがあってこその我々の祈り。「イエス様のお名前によって祈ります」っていう言葉をプラスすればいいってことじゃないですよね。(たびたびのコメでスイマセン。以後、気をつけます。)

Luke

まことにアーメンです。コメはどうぞご自由に。

  • 2010/05/20 19:11
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  • 2010/05/21 04:46
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Luke

はい、そうです。

  • 2010/05/21 10:20
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