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転載:法則であって祈りではない

Candyさんのブログに紹介されていました。こちらでも。自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとしてクルシチャンしているニッポンキリスト教徒のみなさん、法則を知ることは何ができて、何ができないか、その仕分けを明確にすることなのです。そしてそれが魂と霊の切り分けでもあるのです。聖書は宗教の書ではなく、まさしく霊的サイエンスの書なのです。

神が私たちを対処し、わたしたちそのものを砕き、霊を解放して、わたしたちが自分の霊を使用することができるようにされるのは、神の法則によるのであって、私たちの祈りによるのではありません。これはどういう意味でしょうか。

それは、わたしたちの内なる人は、私たちの、砕かれた外なる人を経過して出てくると言うことです。

これは一つの法則であって、私たちの祈りはこの法則を左右することは出来ないのです。法則は祈りによって変えられることはありません。

あなたが祈りながら手を火の中に入れたとしても、あなたの手はやはり火傷をまぬがれないでしょう。(奇蹟のことではなく自然のことを言っています)

あなたの祈りはその法則を変えることは出来ません。ですから、私たちは神の法則に服従する人になるように学ばなければならないのです。

 祈りさえすればそれでよいと考えてはなりません。

もし、手を火傷したくなかったら、火の中に入れないことです。

祈りながら、手を火の中に入れるものではありません。神が私たちを対処されるのは法則によってです。

内なる人は必ず外なる人を経過して出てこなければならないからです。これは一つの法則です。

もしあなたの外なる人が砕かれ、ひかれて粉になっていないなら、あなたの内なる人は出てくることができません。

とにかくこれは主の道であって、主は必ずあなたそのものを打ち破らなければならないのです。

そのとき始めて主が出てこられる道が出来るのです。私たちがこの法則に服従しないで、多くの祈りをもってあれもこれもと祝福を求め続けてはなりません。

このような祈りは無駄であり、神の法則を変えることは出来ないのです。

 霊的働きの道では、神が私たちから出てこられるのでなければなりません。

ただ、この道だけが神の用いられる道であります。

砕かれていない人からは、福音も、神も解き放たれる方法もないのです。またその人自身にとっても歩むすべがないのです。

私たちは神のみ前にひれ伏さなければなりません。どんなに多く祈るよりも、神の法則に服従する方がさらにまさっています。

無知のために神の祝福を求め

 「神よ、私たちのためにこのようにしてください。あのように働いてください」 と求めることは、神の道はこのように歩むものだということを知った一分間の祈りにも遠く及ばないのです。

このような祈りは無益ですから、それをやめて、神に向かって

 「神よ、わたしはあなたのみ前にひれ伏します」と言う方が、さらにまさっています。

多くの場合、わたしたちの祝福を求める祈りはみな妨げとなっています。

多くのとき、私たちは祝福を切望しますが、かえって神のあわれみを見ることができないようです。

神が光で照らしてくださるように求め、み手の下に服従すること、この法則に服従することを学ばなければなりません。この服従の結果が、私たちの切望する祝福そのものであります。

ウォッチマン・ニー:『霊の解放』より

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