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終わりの時代を生きる

聖書には終わりの時代をこう記述する:

 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。

この状況はすでにニッポンキリスト教において実現している。このギョウカイにはすでに真理はなく、主を主として畏れる姿勢は失われ、それぞれが「神」になりつつある。自らの十字架を経ない者はすべて自分を「神」とする者だから。このギョウカイは確実に崩壊する。否、すでにだ。

一方、世を見ると政治も経済も行き詰まり、近いうちドルは切り下げ、米不動産市場はクラッシュし、ユーロも存続が危ぶまれる事態に至る。わがニッポンは実質増税で、緊縮財政路線をとれば、景気は一挙に冷え込む。失業率はさらに上昇し、格差もますます開く。国債も消化できなくなり、金利は一挙に跳ね上がる。

日本人が飢える日

バビロンの特徴は霊的要素と政治経済が混合するのだが、すでにこれも起きている。米政治の裏にはまさにオカルトが潜んでいる。このような時代を生きる私たちは、しょうどダニエルとその友人たちと同じ状況に置かれているのだ。バビロンにおいて主に対する純潔を保ちつつ、その超自然的保護にあって生きた彼らの物語は、まさに今を生きる私たちのそれでもある。

メッセージアウトライン(時を見る目シリーズ)

私はこの10年間言ってきている:「今はリバイバルなどで浮かれる時ではなく、サバイバルの時である」と。何が真実で何が偽りか、すでにそれすらも見えない時代。フェイクに溢れているこの時代を主はいずれ裁かれる。主の戻られる時の地上はまさに主が懸念されるとおりになっていることだろう:

 人の子が地上に戻る時、果たして信仰が見られるであろうか。

主の原則はつねに、残された少数の者(レムナント)によって、何かをなされるのだ。彼らの力が一切働き得ない状況において、ご自身の力を証しされるために。かくして究極の選択は、キリストか、セルフか、だ。これは排他的ORであって、両方を取ることはできない。篩い分けの時代を生きる延びる-これはただ主の憐れみと恵みによるしかない。

追記:関連してヴィオロンさんとCandyさんの次の記事をぜひご一読を。
 ・終わりの時代の初めの展望(1)(2)
 ・朽ちゆくものが不朽なるものを

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