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木村剛氏逮捕の件

金融改革のエースについて、植草一秀氏が書いております。

木村剛氏逮捕『売国者たちの末路』を見定める

ファイル 1420-1.jpg同氏の渾身の著作『知られざる真実-公留地にて』は私も紹介している。どうもそこで指摘された問題が摘発されるモードになってきた。植草氏は今回の逮捕はまだ入り口だとして、小泉竹中時代の汚泥層が噴出すのはこれからだと予言している。

ファイル 1420-2.jpgそして本件の本質が木村氏の動機は「公」ではなく、「私」であることを指摘。これはニッポンキリスト教でも言えるが、不正を質すことが私怨を晴らすためであれば、かえって神の栄光を損なう。人の怒りは神の公義をまっとうしないからだ。この点、これまでの告発者たちがその動機を裁かれる時代に入ってきている。真に神の栄光のため(公)であったか、私のためであったのか。

ちなみにこの言葉はどなたのものでしょうか?

(検査官にうっかり嘘をつくと検査忌避にあたると戒めつつ)

いくら注意しても注意しすぎることはない。

木村氏の『新しい金融検査の影響と対策』の台詞です。

私たちは誰も主の前で自分自身によって立てる者はいない。そのための根拠は私の正しさなどではなく、ただ主の御業と血潮と十字架のみ。そしてかの日に裁きを受けることを願わないのでしたら、今、憐れみを示すこと。「憐れみは裁きに打ち勝つ」とあるとおりだ。

(一応注意:これは「不法をなしたものを免責せよ」と言うことではありません。今日、たとえば司法で裁かれることはかの日の主の裁きを軽くすることにもなるのです。ビョウキの人は精神科で、犯罪を犯した者は警察でちゃんと面倒を見てもらいましょう。)

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