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見ても見ず、聞いても聞かない

再建主義の富井氏の主張に耳を傾けましょう:

彼らは「いや、モーセ律法は廃棄されたが新たにキリストの律法が現れた」というが、じゃあ、そのキリストの律法とは何か示して欲しいというが示さない
キリストの律法というのはどこに記されているのか?
もしはっきり示すことができなければ、これは「律法廃棄論」である。
ディスペンセーショナリズムを含め、律法廃棄論の決定的な間違いは、キリストを不用にすることにある。
律法が廃棄されたならば、キリストの贖罪は無意味である。キリストの贖罪が有効であるのは、律法が有効だからだ。
きまりがなくなった場合、そのきまりによる刑罰もなくなる。
となれば、その刑罰を免れさせる犠牲の存在も不用になる。
だから、あらゆる律法不要論、律法廃棄論は、究極のところ、反キリストである。
律法不要論であり、なおかつ正統的なキリスト教であることは絶対に不可能である。
キリストの贖罪を主張し、イエス・キリストの十字架の御業を信じるように勧める人々は、全員律法存続論を主張しなければならない。
だから、セオノミーと福音とは切っても切れない関係にある。
旧約聖書の律法の一部であっても、廃棄を主張するならば、その違反のために犠牲となられたキリストの御業を否定することになる。
正解はこれだ。
旧約聖書の律法は、ことごとく存続している。しかし、かつてのようなものではない。それは、バージョンアップされた。
どういうふうにバージョンアップされたかというと、超民族的超時代的規定になったということだ。
モーセ律法において、祭司はレビ族であったが、キリスト以降、祭司はキリストご自身であり、彼はユダ族である。
キリストにおいて、祭司制度が根底から変わった。祭司制度が変わった以上、律法も変わる(ヘブル7・12)と聖書に記されているから、律法も変わった。
じゃあ、どのように変わったかというと、パウロは、ガラテヤにおいて繰り返し「犠牲は本体に変化した」という。
つまり、動物犠牲はキリストご自身による犠牲に変化した。

やれやれ、相変わらずですが、聖書にはこう書いてある::

その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、・・律法は何事も全うしなかったのです。・・他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

新しいキリストの律法とはいのちの御霊の法則であると、明確に聖書に書いてあるでしょうに:

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

レビ系の律法は廃止され、メルキゼデク系の律法(いのちの御霊の法則)が導入されたのです。それはMS-DOSに代わってWindowsが導入されたのと同じことで、Windowsを用いる時には自動的にMS-DOSも用いているのと同様に、いのちの御霊の法則はモーセ律法をも満たすのです。律法は超民族化されただけではなく、いのちの御霊の法則へとヴァージョンアップしたのです。これが私の言っているヴァージョンアップの意味です。

かくのごとく、ある種の思想にハマリ、先入観念をもって聖書を読めば、自分が読みたいようにしか読まなくなるのです(認知の選択的透過性)。こうして誤謬の体系をますます強固化していきます。富井さんもこれを知ったらこれまでの彼の努力と積み上げてきた体系(再建主義)がすべて崩壊してしまうので、彼の心はそれを見ないように、また認めないように働くのです。頑なになる者はますます頑なになるのです。これが彼が反キリストとするフロイトの発見した心の自己防衛機制です。彼の論点には制度の問題は頻繁に出るのですが、心の問題がほとんどバイパスされているのですね。しかるに御言葉は心を扱うものなのです。聖書はまたこうも言っています:

心はよろずのものよりも偽るもので、はなはなだしく病んでいる。

Comment

Isaiah Ben Hur

なるほど、この認知の選択的透過性は、クリスチャン・トゥデイを指示するニッポンキリスト教のオエライさんたちも同じなのでしょうね。Lukeさんの言う色気や野心が心を曇らせているのでしょうか。御言葉は制度ではなく、心を扱う、まさに。。。メッセージのバビロン化のひとつの兆候と言えるでしょうか?

  • 2008/02/01 22:05
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  • 2014/08/05 22:36
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Luke

あ、先生、ご無沙汰しております。そうでしたか、ますますのご健勝とご活躍、大変励まされます。また小生へのお心遣いとエールをありがとうございます。この内なるいのちは死と復活のいのち、まことにイエスの道を歩みたいと感じている昨今ではあります。

新約においては、いのちの御霊の法則の中にモーセ律法は組み込まれてしまっていると思います。つまりこれらは対立するものではなく、MS-DOSがWindowsに吸収されたように、モーセ律法もいのちの御霊の法則に含まれてしまっている。ですから、この御霊に従うことにより律法も満たすわけです。その意味では裸の石に書かれた律法は廃棄されても、いのちの御霊に書かれている律法は生きているわけです。

以上、愚見を述べさせていただきました。どうぞご自愛の上、ご活躍くださいませ。Blessings!

  • 2014/08/06 06:19
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