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日常性からの旅立ち

救世軍の山谷少佐が「時の終わりに際して」なる記事を物しておられる。日常性が終わるその時が来ると。2011年、年初から次々に異常現象が起こる今年は、前々から言っているとおり、相転換した2010年の後、その現われの年となる。地震について言えば、これは最後のチャンスであって、これから来る致命的な大地震の前触れに過ぎない。主は猶予を下さったのだ。そもそも私たち異邦人はイスラエルが頑なになっている間に接木された存在。ダニエル書の69週はすでに成就し、最後の1週までに挿入的にいわゆる「教会時代」、「異邦人の時」、「恵みの時代」が存在する。

もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
見てごらんなさい。神のいつくしみきびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
・・・
兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり-Rom 11:22-25

「異邦人の完成のなる時」とは「数の満ちる時」だ。かくしてこの時が来れば、ノアの箱舟のように、後ろの戸が主の手によって閉じられる。どうもこの時が近いように思えることは山谷少佐も感じているようだが、特にこのいとおしい「日常性」からの離脱、これが今後の鍵になりそうだ。正直に言って、私は少なからず世を楽しんできた/いるし、当たり前の人間生活としての「日常性」を慈しんできた/いる。春は桜、夏は海、秋は紅葉、冬は温泉、週末はランチと映画、六本木のJazz Liveや洒落た店でのお酒と会話、気に入った車でのドライブ・・・。まあ、"立派"なクリスチャン生活を送らせてもらえたと思う。人として一通りのことは経験したし、貧に処する道も富に処する道も知っている。人から好評価を得ることも悪評価を得ることも知っている。地上的にはもうあまり欲しいものはない。(否、正直言えば、億単位のカネを欲しいかも知れないかもだが・・・オイオイ)。

そこから離脱すること、まさに携挙の時、これが問われるわけだ。ウォッチマン・ニーはその著『キリスト者の標準』で証している。「私は今この本の完成の直前に来ていますが、主の呼ぶ声があったら、その完成直前の自分を放棄して、その声に応えるのです。もし自分の何かを優先したら、そこでおしまいです。ロトの妻と同じように・・・」という趣旨の内容がある。自分の何かを愛することは、実は自分を愛すること。その愛に囚われて、主の愛の御声を無視すること。これが最後の、そして決定的な篩い分けの瞬間だ。立派な教会を建てることに熱中したり、立派な神学体系を構築することに忙しく、その御声に応え損なう牧師などがニッポンキリスト教にはけっこういると思う。

それぞれの「日常性」があろうとは思う。霊性の高い立派な信仰の歩みによるソレもあろうし、霊性のあまり高いとは言えない私のような世にまみれたソレもある。しかしそのどちらにも共通することは、自己への執着。主は言われた、「わたしよりも、自分の父や母、また息子や娘を愛する(phileo)者はわたしにふさわしくない」(Matt 10:37)と。主の愛は排他的、私たちを愛するあまり妬む神であり、主はご自分が最優先であることを願う神なのだ。

このために私たちの魂による愛を拒絶することがどれほど必要であろうか。主はご自分を心配するペテロに対して「サタン、引き下がれ。・・・神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責した後、「わたしについてきたい者は、自分(セルフ)を捨て(Gk.否み)、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の(Gk)を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのためにを失う者は、それを得る」(Matt 16:23-25)。

「セルフを否む」とは、「魂を失う」こと。もちろんそれは精神活動を停止することではない。セルフに対する魂の粘着を去ることだ。それは特に憎しみとか敵意などでは容易に理解できるが、愛情の領域では盲点になる。いわゆる愛が自己愛の投影であることはニッポンキリスト教や社会のボランティア活動、さらに正義や人権を振り翳した諸々の運動などを見ればすぐに理解できる。それは清く・正しく・貧しくといった難行苦行でも、禁欲主義でもないし、宗教的鍛錬でもない(Col.2:20-23→自己を否むことについて)。

すなわち「日常性」と「魂の粘着性」はある意味等価であり、これが最後の篩い分けのメルクマールとなる。この地上の生活においてどれだけ魂から解放されているか。ただし、主は何事も強制はされない。ゆえに地上に思いを残し、「日常性」に心を置くのであれば、ただちにレフトビハインド。昨今の地球や宇宙の異常を見るとき、主はあえてそれを許され、私たちの心を占有する地的なものを振るわれている感覚を覚えるのだ。目に見えるものは一瞬のもの、永遠のものは目に見えないものだと(2Cor.4:18)。かくして携挙は決して自動的なものではない。私たちの自発的応答が必要なのだ。

ある本にこんな話があった。昔、モールス信号の通信士の採用試験の際、何人かが応募してきた。待合室においてみな自分の呼ばれるのを待っていた。するとある人がすっと立ち上がって部屋の外に出て行った。みなはトイレにでも言ったのか思って気にもとめず、さらに自分の名が呼ばれるのを待ち続けたが、一向に呼ばれる気配がない。そこで雇い主にいつまで待たせるのかと文句を言うと、彼は一言、「もう試験は終わりました」と。みなは唖然としたが、先のトイレに行った者が採用されたのだった。さて、何がどうなっているの?と言うわけだが・・・

トイレに立った人は壁が「コツコツ」なる音を察知したのだ。それはモールス信号で、隣の部屋まで来るようにとメッセージを送っていた、というわけ。主の慕わしいその御声による呼び出し(携挙)も多分こんな場面であろうと思っている。

お前の耳を塞がせたものは・・・時計の森・・・

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