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まことの神はどなた?

どうも「2ちゃんねる」では、大勢人が神になる方向にまとまるようですね。一部反対意見も出ているようですが。下のリンクを解除しておきますので、フォローしたい方はそれぞれでお願いします。

しかしこの「2ちゃんねる」の空気。ここでもコピペして下さるわけですが、私たちの日常性に、きわめて異質な世界が割り込んでくるという印象がありますね。通常の世界の裏返しなのですが、ここに入ると神になる人々までもがあの空気に飲み込まれ、一種の変性意識状態になるようです。独特の用語、振る舞い、言葉遣い、独特のルール・・・。なんとも意味不明のものが多いのですが、最近分かったのは"orz"。何のことかまったく不明でした。皆さん、分かります?

そこは西村博之と言う特異的なパーソナリティの拡大であり、ある意味で西村博之はその通常の世界の裏返しの世界を作った"神"なのですね(→2ちゃんねるは管理人ひろゆきの性格の反映?)。かくしてそこにはリアルの世界の論理や法律は適用されず、歌田氏の論考にあるとおりのアナーキーな世界が展開するわけです。そして東方神学やアタナシウス神学の深い心得のある神になるべき霊性の深いクリスチャンたちも、その世界で泳がされているわけです。

で、神学のド素人である私が神学の問題提起をしたいと思います。聖書には「すべての権威は神の建てられたもの。クリスチャンも良心に反しない限り、それに従うべし」とあるわけです。一方の「2ちゃんねる」から1億以上の収入を得ている西村博之は「裁判の判決は無視する。死刑になるのであれば賠償金を払う」と豪語して、無法世界を展開しています。では問題です。神の代理統治権である司法は、この西村博之が"創造"した世界に及ぶのか否か。リアル世界とヴァーチャル世界の神学的観点から見た関係は如何?

はたして「2ちゃんねる」に住まう神になる神学者のみなさまがどちらの世界の統治権に属しているのか、どなたを主とされているのか、ぜひご意見を拝聴したいところです。(究極的にはまことの神ご自身の判決が下るのではありますが・・・。)

Comment

山谷

「神が人となりたるは、人が神となるため」という定式について、「にちゃんれす」でレスしておきました。ご笑覧くだされば幸いです。
http://9021.teacup.com/makotoyamaya/bbs/493

結論から言えば、この定式の内容をどう定義するかで、異端にもなり、正統にもなります。

ウィットネス・リー派の場合、この定式を適用したひとつの結果が「リーは来臨キリスト」という非公式教義になってしまっているわけですから、リーの理解する限りの「定式」では、異端、ということになります。

逆に、東方教会の場合、この定式の適用は、修道院の長年の実践的蓄積という「縛り」がかけられている上、グレゴリオ・パラマスという、おっかない番犬のような神学者の手で修正を経ていますので、東方教会が理解する限りの「定式」では、正統、ということになります。

Luke

これはご教授を感謝です。要するに「神化」と言ってもその内包はいろいろと・・・と言うわけですね。それにしてもCT側は根田氏の陰謀説を唱え、凄いことになってきましたね。「2ちゃんねる」は妄想活性化世界とも言えます。

ついでにここをご覧の皆さまにもちょっとご紹介しておきましょう。リーの神化は、神性と人性を個々の性質を変えずに混ぜ合わせて(mingling)、人が神化するわけです。それは水と紅茶を混ぜるようなものと言う具合に、喩え話がそのまま教義化されるわけです。神性や人性をあたかも物質化してしまう。これが彼の特徴です。

こちらに彼らの"神学論文"があります(これが神学論文に値するか否かはサイエンティストの私は判断しませんが^^)。
http://localchurch.web.fc2.com/part2/mingling.html

もっともらしく神学用語をちりばめていますが、皆さんはこれ読んでトリックが分かります?自然科学的トレーニングを受けた私から見ると、まったくナンセンスですが、これで"mingling"の正当な神学的根拠が与えられたとする神学者がいるとしたら、「神学」っていったい何?となってしまうわけですね。解答はこの中に注をつけておきましたが、いつか時間のある時にゆっくりと。

  • 2008/02/13 12:22
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ICHIRO

水と紅茶を混ぜたら、普通は紅茶ですよね。薄くなるでしょうけど、、、。
神と人を混ぜたら、どっちなんだろう?リーは神が人化し、人が神化すると言うわけですか?
単なることば遊びのような感じもしますが、神学者様に怒られますか、笑
こういったことに真剣になれる人たちって、ある意味うらやましいかも、日々生活に追われている身としては、、、。

  • 2008/02/13 13:10
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山谷

ご紹介くださった論文、目を通しました。

リー派の論の欠点は、グレゴリオ・パラマスが一枚噛んでいる、単意論か両意論かの議論を、すっとばしてしまっているところだと思います。

神人二性一人格の教義の確立後に起きたのが、「キリストの一つの人格の中に、神の意志だけが存在するのか。神の意志と人の意志の両方が存在するのか」をめぐる論争でした。

当初は「神の意志が人の意志を吸収して、単一の意志となった」とする「単意論」が優性で、一時は東ローマ皇帝がこれを公式教義と宣言したこともあります。

しかし、結論は「両意論」が正統教義に落ち着きました。

かくて、キリストのひとつの人格の中に、神としての意志と、人としての意志が両方存在していて、人としての意志は、いつも・つねに・たえず・神としての意志に服従し、これにより意志と行為としての「愛」がキリストの人格において発現する、という「図式」が保持されることとなりました。

後年、「人の意志の神の意志に対する服従」が、キリストの人格においてどのような仕方で行われているかについて、さらに議論が起こり、「人としての意志は例外無く全く、神としての意志に服している」とする「ケノーシス・キリスト論」と、「人としての意志は、ほとんど姿がわからないまでに隠されている」とする、クリプト・キリスト論が提唱されました。

このクリプト・キリスト論をめぐっては、かつてカルケドンが否定したはずの「属性の融通」が、一部のルター派によって再び唱えられる場面があり、これに激しく反対したカルヴァン派が、「エクストラ・カルヴィニスティクム」を唱えて、「人としての意志と、神としての意志の間には、無限の隔絶がある」としました。(ここまで来ると、キリストを俎上に載せて解剖し腑分けすることは出来ない、という立場からすれば、???な議論ですが。。。)

以上の流れを要約しますと、神人二性一人格の問題は、最終的には、神としての意志と人としての意志の協働としての「愛」という問題に行き着く、ということになります。

そうして、信者がキリストに結合せられて、キリストに似る者となる、とは、「愛」においてキリストに似る者となることだ、ということになります。

この場合の「愛」とは、信者の人格の中で、人としての意志が、聖霊の直覚を通して示される神の意志に対して明け渡され、服することによって発現する「愛」ということになります。

つまり、リー派の言う「ミングリング」のような物質的な図式ではなく、あくまで、内面的、精神的、人格的、意志的、霊的な図式で考えるべきである、ということになります。

聖霊からの措置に服することが、ウォッチマン・ニーが繰り返し述べた、十字架の経験ですね。十字架を担うと、人としての意志が釘付けられ、復活へもたらされ、打ち傷を通して、十字架を経た愛が表現されることになるはずです。

十字架を経ない愛(ルーク先生の用語で言うところの「砂糖まぶしの福音」)においては、人としての意志が、聖霊からの措置に全くおかまいなしに、100パーセント無条件肯定されてしまうことになります。

Luke

まったくもってアーメンです。愛によって服することの幸い。これが主の勝利であり、私たちには十字架の経験ですが、きわめて甘美な経験です。しかしこれが今日すっぽり抜けている。まさにこれこそが私たちの信仰の核心ですね。

ところで少佐の「根本主義に基づく多元主義」に関して、少佐のモデルを一切理解できない輩が、言葉だけの空回りで異端宣告をしているようですね。少佐の提示された中間期のモデルはほぼ私の聖書理解と合致しておりますので(鈴木大拙や道元の話で言わずもがなですが)、私もCTのSola Gratiaこと高柳泉社長から喜んで異端宣告を受けましょう。

一般に神の永遠の視点と時空間に閉じ込められた人間の視点を区別し損なう時に、聖書の真理は重大な矛盾を生じ、自ら勝手な解釈を無理にして滅びてしまうわけです。再建主義でも一応「法的立場」と「実際的立場」と区別しているようですが、なにしろ彼にはいのちの次元の議論が抜けてしまっているのが残念です。よってここでも意志論が抜けており、自己の十字架がまったく出てきません。平板な制度論的議論になっているだけです。

今、ここで、永遠のI AMとどう関わるか。誰の意志が優先され、誰が主とされるのか。究極の選択―キリストかセルフ(自己)か。このエクスクルーシヴな選択が愛の動機によってなされること。この時私たちの平板な思考における矛盾性などは解けてしまう。大拙の即非の論理の実現とも言えます。このEternal NOWにおけるダイナミクスこそが私たちの信仰生活であると愚考しているところです。

再度の有益なご指摘、感謝いたします。

  • 2008/02/13 14:59
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通りすがり

ついに捏造論がでましたよ。唐沢・山谷は捏造家だそうです。

661 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/02/13(水) 16:55:56 ID:jOE5Hgvn
唐沢サイトのコピペをもとに議論すんのやめたほうがいい。
CT・山谷でもそうだが
信頼に足る資料は第一次資料なんだから。

662 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/02/13(水) 17:05:54 ID:jOE5Hgvn
たとえば>>593だが
リーがリーがって言ってるが
文体がリーっぽくない。
本当に著者はリーか?
著者がリーであると書いてあるLSM側の
出している原文を提示すべきだろう。
出せないんだったら信頼するに足りない。

664 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/02/13(水) 18:10:50 ID:a4aQ8zvZ
唐沢も山谷も捏造大好きw

  • 2008/02/13 18:28
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デンスケ

"orz"を思いついた人は、すごいと思いますね。^^
ついでに "にしこり" はヤンキースの松井選手です。

  • 2008/02/13 19:29
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Luke

重ね重ね、ご苦労さまです。まあ、あの流れでは私による捏造とするしかないでしょうね。CTも山谷さんの資料を捏造としてしているわけですが、彼らの手法は実に定石にはまっているのです:
(1)告発者の弱みを握り、そのクレジット(信用)を落とす。
(2)告発者の告発内容を種々の情報操作によって捏造とする。

こうして定石にはまって工作あるいは嘘を重ねるほどに自分を自分で追い詰めてしまうのですが・・・。CTもLCも元々はマジメな人々ですから、かえってこうした定石通りを行ってしまうのですね。もし私が彼らの立場ならばもっとうまくやりますが(笑)。

  • 2008/02/13 19:30
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Luke

いやあ、人が神になるか、神と人は混ざるか、議論が白熱してきましたね。私がアタナシウスを否定して自爆したとかも・・・。まあ、妄想促進空間ですから、何でもありですが。山谷さんも妄想病患者、Dr.Lukeも妄想病患者と。でも面白いのでもっと見てましょう^^多分あのスレを一番歯噛みをして見ているのは地方教会の人たちでしょう。

しかしこうして2ちゃん関係の記事でここが汚されるのも考え物ですしね。山谷さんのように「にちゃんれす」をやるのも面倒ですし。はて、どうしたものかと・・・。

  • 2008/02/13 21:16
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zion

宴たけなわですが、この手の話題はつまらんですな。退屈です。

  • 2008/02/13 22:32
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