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体の交わりの中へと

本日は新学期講義のシラバスの入稿日であり、二講義各14回分の構想を練りつつ、ようやく脱稿。最近はペーパーメディアによらず、ネット上で入稿できるわけで、これは締め切りギリギリまで延ばすクセのある怠け者の私にとって実にありがたい次第。今年はどんな学生諸君との出会いがあるだろうか。昨年はかなり楽しかったので、今年も期待したい。

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面白いもので、いのちにある交わりを見出した人たちとは、教義のスリ合わせとか、教団の是訓とかを確認するまでも、自然と交わりの中へと入ることができる。そもそも背景を互いにほとんど知らないのだ。いわゆるキリスト教が東西に分かれ、さらに中世の暗黒を経て、宗教改革の後、ルターとツウィングリの間で第15題目において食い違いを生じて、プロテスタントは分裂に次ぐ、分裂に陥っている。

私は『キリスト教の教派がよく分かる本』を読んだらますます分からなくなったのであるが、幸いなことにそういった「バカの壁」を超えて、キリストの御体は成長している。"神化"するまでもなく(まあ、これは神化専門の人々に任せて置けばよろしい)、このいのちの交わりに与ることは幸いであり、この中へと入ることは、すなわちキリストご自身を知ることでもある。

これはSalt氏も証しているが誰もコントロールすることもなく、また実際にお会いしたこともないのになぜか可能である。ある種の霊的なセンスが互いを感知し合うと言うべきであろうか。互いに信仰のバックグラウンドを確認せずとも、理屈ぬきでそれと分かる。こうして病んだ兄弟姉妹に対する主の不思議なケアがこの体の中で自然と行われることはまさに驚くべきこと、そして幸いなことである。

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