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あなたの契約の代表者はだれであろうか

と題する記事を再建主義の富井氏が書いている。

われわれは、契約の代表者を変更しなければならない。
アダムが契約の代表者としてわれわれは生まれてくる。
だから、そのままだとアダムと同じ運命になる。
つまり、永遠の死と呪いである。
アダムからキリストに契約の代表者を変えなさい。
キリスト族になりなさい。
そうしないと、あなたは契約的身分はアダム族であり、キリストの救いにあずかれない。

まことにそのとおりだ。そう、救いとはアダム族からキリスト族への移し変えだ*1。表向き(経綸的に)は、ユダヤ人、異邦人、クリスチャン、時にメシアニックジューとかに分けられるが、神の目から見たら本質的に人類はこの二種類のみ*2。まさに二元論の世界だ。つまりどちらの系列のいのちを有するか、の問題である。以前にも紹介したがオブジェクト指向言語JAVAが福音の本質をよく説明するので、再度紹介する。

JAVA的にはClassを変更するわけだ。アダムクラスからは罪(Sin)が継承されて、罪々(sins)として実体化される。キリストクラスからは義が継承されて、義の行為が実体化される。これが十字架の切り分けによる信仰の実だ。このキリストクラスに働くのがいのちの御霊の法則だ(Rom 8:1-5)。対するアダムクラスでは罪と死の法則。かくしていのちの御霊の法則に乗るならば、モーセ律法は自ずと満たされる(Rom 8:6)。このゆえに、私はいのちの御霊の法則はWindowsのようなもので、自動的にMS-DOSに相当するモーセ律法を包括する、すなわち上位ヴァージョンであると富井氏にも申し上げたのだが、ついに理解されなかった。彼は次のように言う:

キリスト族になるには、「イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださった救い主であり、人生の主であり、王であり、契約的規則を守り、一生服従する」と誓うことである。
保険契約に義務条項があるように、キリスト契約にも義務条項がある。

この契約条項が「超民族化されたモーセ律法」なのだろう。しかし聖書は言う、私たちは律法と肉に対しては何らの責任を負っていない(Rom 7:1-2;8:12)。律法に対しては死に、肉は十字架において抹殺されたとものだからだ(Gal 5:24)。ゆえにただ御霊に従って生きること(Gal 5:25)。これが新契約に生きる私たちの責任だ。肉に生きるならばそれは罪と死の感覚に支配される。御霊に従って生きるならば、それはいのちと平安だ。さあ、どちらを選ぶのか。これはキリスト教神学などとは何ら関係のないこと。いのちの問題だ。

聖書が神のことばではなく、人間が神について証しする書物だとするような者たちはすでに論外であるが、同じ聖書を読んでいても、どうしてこうも異なる説が出るのであろうか?富井氏の記事にいのちの御霊の法則が書かれるならば、それこそ教会を再建できるであろうに!目が開かれんことを祈る次第。

しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。-2Cor 3:14-18

追記:クリスチャンとキリスト教徒の定義の差がお分かりいただけると思うが、同時にエクレシアとキリスト教会の定義の違いもご理解いただけると期待する。エクレシアとはキリストの復活のいのちを吹き込まれた人々から構成される有機体、神の新創造である。対してキリスト教会とはイエス・キリストを教祖とし、聖書を経典とする宗教団体。その違いは天と地の差だ。私の言うエクソダスの意味もお分かりいただけると思う。それはキリスト教徒がどこのキリスト教会に属するかとか、転会するとかの問題ではないのだ。キリスト教徒はどこにあろうともキリスト教徒に過ぎない。キリスト教会はどれであろうとも、キリスト教会に過ぎない。そもそもがエクレシアではないのだから!それは単なる猿真似、フェイクだ。現在、エクシレアがキリスト教会の中に取り込まれて、窒息している。しかし神は同時にご自分の御体にして、花嫁であるエクレシアを個別に召し出されている。これがエクソダスだ。

*1これは人にはできない神の業だ。神以外の誰がいのちを取り扱うことができようか。これを勘違いしてガンバって聖化されようとか、リッパなクリスチャンになろうとする人々がクルシチャン(苦しちゃん)だ。彼らには一言、お疲れ様〜
*2いわゆる(ニッポン)キリスト教徒とは、この移し替えがない人々だ。単に知的なキリスト教の理解や伝統や儀式を歯を食いしばって行い、ある者たちは野心の実現のため、ある者たちはついにキレて、什一献金がどうのこうの、牧師がどうのこうのと狂気じみた告発をし合う輩である。サルが懸命にヒトの真似をしているわけで、まことに愚かというか、哀れと言うか、喜劇的な者たちだ。

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  • 2011/10/20 05:02
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