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再臨の意味

いつもの再建主義の富井氏が再臨についてこう書いている

私は、短い生涯の中で何度も神の裁きを見てきた。
いわゆる「横車を押す人々」はいかに地位や権力が高くても引きずりおろされる。
理不尽なこと、合理的ではないこと、公平ではないこと、これらは、みなストレスである。
つまり、ばねに力がかると縮む、これと同じである。
ストレスがかかっている。
しかし、ばねは、元に戻ろうとする力を持つから、一定のところまでいくと反発する。
社会悪があまりにもひどくなると、ストレスは極限に達して、ついに爆発する。
時代というものは、このようなストレスの溜まり具合によって変わる。
竹のようなもので、すくすく成長する場合もあれば、一点にとどまって節を作る場合もある。
社会が停滞しているときは、新しい時代の幕開けを待っている時だ。
新しい時代は、古い時代の腐れた部分が切除されてから始まる。
そういう意味において、「主は来られる」のである。
再臨は何度でも起きる。
旧い体制がもはや機能しなくなったときに、世界の王である主イエスが来られて、その体制でうまい汁を吸っていた人々に裁きを下され、次の体制に移行される。

うーん、なるほど。だからAD70年にエルサレムがローマに陥落した時に主は"再臨"しているわけだ。イエスが言われた「この時代」とはあくまでも当時の40年程度を意味し、またパウロが主と空中でお会いするのは「私たち」だと言ったゆえに、"再臨"は当時の事件でなくてはならないわけだ。かくしてAD70年に古い経綸が終り、モーセ律法もヴァージョンアップされて、超民族化され、ゆえに我々異邦人にも適用されるようになった。つまり時代は変わったのだ。これからも時代は変わる。それの意味で主は"再臨"される。・・・うーん、これはパラダイムが根底から異なる!*1しかして聖書はなんと告げるか:

こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」-Acts 1:9-11

主は、昇天された時と同じ様で再び来られ、私たちを空中へと挙げて下さる(1Thess 4:17)。否、それ以前に初穂(Rev 14:4)として挙げられること、ここに究極の希望がある。そして主は文字通り千年間の地上における御国を建てられる(Rev 20:2-6)。地にはイスラエル、天にはエクレシア。サタンは縛られ、邪悪な霊の一切働かない時代。それは健やかな王なるキリストの霊が支配する時代。現経綸に置かれた私たちは、依然として旧創造の罪の宿る不便な幕屋(身体)の中で(2Cor 5:2)、そのフォア・テイスト(前味)を経験しているのだ(1Cor 13:12)。その保障、あるいは手付金が聖霊である(Eph 1:14)。聖霊は神たる(第三位の)お方そのものなのだ!

その日は近い!まことに、マラナタ!

■参考:携挙の時期について

*1:もっとも、主の再臨や空中携挙などは、リベラル系とかではまったく信じていないわけで、再建主義だけの話ではないのだ。彼らはブラザレンのダービーやスコフィールドの説を陰謀とか妄想とする。彼らにとっては、携挙や再臨などはまさにカルトなのだ。私的には、はたして彼らは何を信じているゆえに、自称"クリスチャン"なのだろうか、と素朴な疑問が・・・。

Comment

エシュコル

久保有政氏は携挙も再臨(?)も一度との考えの様です。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/shumatsu04.htm

  • 2011/11/27 08:52
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