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律法の行方

不思議だ、実に不思議だ。いつも再建主義の富井氏の発言。こう言われる:

律法に関する現在のクリスチャンの間違いは、イエスが律法を成就されたので、もはやクリスチャンは律法に縛られないというものである。

イエスは、律法について次の2つのことを行われた。
(1)われわれ神の民の代わりに律法の呪いを身代りに受けてくださった。
(2)律法を完全に守り、われわれ神の民の代わりに永遠の命を受けられた。

この2つの功績によって、われわれは、
(1)律法の呪いから解放された。
(2)律法を守らずとも永遠の命を受けることができる。

われわれは、もはや律法によって刑罰を受けることはないし、律法を破ったからといって永遠の命を受け損なうことはない。
われわれは、律法の呪いから完全に解放された。
しかし、われわれは、神の民の規則としての律法から解放されていない。
われわれは、神の国の国民であり、それゆえ、国民としての義務である法律を守らねばならない。
それが、律法である。

では、御言葉は何と告げるか?

それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。―私は律法を知っている人々に言っているのです。―
・・・
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
・・・
しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され*1、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。-Rom 7:1-6

罪を犯すと死、そして死んだ者は律法から解かれている。また祭司制度との関係ではこう言われている:

さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです。―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
祭司職が変われば、律法*2必ず変わらなければなりませんが、私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、―律法は何事も全うしなかったのです。―他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。-Heb 7:11-19

ポイントはレビ系祭司制度とメルキゼデク系祭司制度。前者は石に書かれた律法によるが、後者は心に書かれた律法、すなわちいのちの御霊の法則による。最初のものは何も成し得なかったので廃止されたが、さらにすぐれた新しい希望が導入された。この新しいnomosに従う、というより、乗るならば、自動的に律法は満たされる。

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。-Rom 8:2-4

富井氏とDr.Lukeのシェーマ:

ファイル 2622-1.jpg

不思議だ、あれだけ御言葉を強調されながら、なぜか、彼の口からいのちの御霊の法則を聞いたことがないのだから・・・。この部分がそっくりベールに覆われてしまっているようだ。私たちは、今の経綸では、律法に従うことに対して責任を負うのではなく、御霊に従うことに対して負っているのだ(Gal 5:16)。

そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。-2Cor 4:4

この現象は未信者だけに起きるのではない。まことに今日のニッポンキリスト教がそのことを証明している。この点富井氏の言われる懸念を私も抱いている:

イエスは、「この岩の上に教会を建てる」と言われた。
「この岩」とは、ペテロのことではなく、ペテロの「信仰」である。
ペテロがイエスをキリストと告白したその信仰こそが教会の土台なのである。
だから、教会にとって信仰内容は極めて重要である。このまま行けば教会は滅亡である。
全国だけではなく、全世界からクリスチャンが消えるだろう。

プレミレポストミレ。律法の行方に関する理解の差が生むこのふたつの立場。この信仰内容の違いは致命的に大きい。前者はイエスの再臨後に千年期が到来するとし、後者はすでに現在が千年期であり(黙示録19章まではすでに成就していると言う)、全世界が福音化されて後、イエスが再臨するとする。論争してもまったく無意味であるが、時代がどちらが真理であるかを証明する様相を呈している。この意味で、初臨のイエスを目撃した時代と同様に、再臨のイエスを目撃するかも知れない私たちも、実に特権的な時代に生きていると言えるのだ。

追記:アメリカにおいてはメインラインはすでに単なる社交サロンに堕しているが(ニッポンキリスト教も同じ)、真の霊的いのちを持つ教会は地下教会となるであろう、との記事。KFCなどはまさにニッポンキリスト教非公認かつ異端・カルト教会として、中国と同様に地下教会的にかろうじて存在しているわけだが・・・・

*1:原語はkatargeō、すなわちアイドリング状態のこと。車のギアが外れる状態だ。私たちは律法の要求から(私がこよなく好む)アイドリング状態にあるのだ。
*2:原語では、nomos=法則。

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