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Dr.Lukeの一言映画評

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プールとサウナは木曜日に移ったので、午前はマッタリと。午後からは映画。『源氏物語 千年の謎』。

叶わぬ愛が、その物語を綴らせた─ミステリアスで華麗!未曾有の平安王朝絵巻

平安王朝の時代。才女との誉れ高い紫式部は、時の権力者、藤原道長の娘、彰子の女房として宮中に仕えていた。娘を中宮にし、権力を振るいたい道長は、帝の心が娘に向くよう、紫式部に物語を書くよう命じる。式部が綴る「源氏物語」の主人公・光源氏は輝く美貌と雅やかさで、宮中の女性を夢中にさせる。物語は見事、帝の心を掴み、晴れて彰子は帝の后となる。道長の野望は叶った。しかし、それでも式部は物語を書き続けるのだった。

当初は命じられて書き始めた物語だったが、その目的を達成して、なお紫式部は書き続ける。何故?そう、彼女の秘められた道長に対する愛と嫉妬が、現実と虚構の境目を失わせるのだ。かくして彼女自身の内面が作品の登場人物に投影される。その虚構の人物があたかも生霊として、彼女を蝕むのだ。このことに気がついた陰陽道の安倍清明。時空間を超えた陰陽道士と生霊との戦いに入る。

・・・というわけで、ニッポン版ハリーポッター。前に『ミラー』を紹介したが、鏡の向こうの"事実"が、現実に事実となるという話。しかし、これはあながちファンタジーではない。現代がまさにそうなのだから。何度も指摘しているとおり、霊的領域での相克がそのままに現実に現出するのが現在の状況だ。イデオロギーや思想、すなわち人間の浅知恵を超えた、まさに『聖書物語 六千年の謎』が展開しているのだから。霊的存在の思い・感情・意志が人間の魂(思い・感情・意志)において再現される。これが諸々の社会現象として私たちが見るところなのだ。このゆえに魂は、「鬼が云う」と書かれる。ユダはここで自らの破滅を招いたのだ。

夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが-John 13:2

私たちはこのようなファンタジーなどには十分に注意する必要がある。私たちの魂の思いを敵に支配されるならば、容易に敵の道具とされるのだ。故に主は言われた:

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。-Eph 6:14-18

そこで十字架。十字架にあって、御霊は御言葉を用いて霊と魂を切り分ける。この切断あるいは分離こそ、私たちをあらゆる敵の欺瞞から守るのだ。しかし、ニッポンキリスト教はもちろんこと、世界的にも、ヒューマニズムなどで切断を回避するキリスト教は敵の欺きによって背教に落ち、自ら神の敵となる。そしてあの者が出現するのだ(2Thes 2:3)。これも歴史の必然。私たちはそれを目撃しつつあるのだ。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。-Heb 4:12-13

霊と魂の分離について

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