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耳のある者は・・・

同氏がそのベストセラー"The Late Great Planet Earth(邦訳:今は亡き大いなる地球および地球最後の日)"に対する批判者に対して回答している。現代の世界情勢はまことにダニエル書と黙示録のとおりになってきているわけだ。本書はこのブログでも紹介している

これまで本書についてはきわめてエキセントリックな批判がなされている。その筆頭が本書の訳者でもある越智道雄氏。いわく聖書原理主義で核戦争を待望する妄想的かつ狂信的書物だと。わがニッポンキリスト教でも、きわめて知的かつインテリなニッポンキリスト教徒たちがしたり顔で口を尖らせて非難しているが、私的にはひとつのパラダイムを提示するものとして大いに評価している次第。

そして何よりも事実がそのとおりになってきているわけだ。というよりも、聖書の預言通りにだ。鍵は北の王、東の王、南の王。まことに現代の地政学的配置が、紀元前6世紀ころに記述されている点、これだけでも神の主権を認め、かつそれに服するべきであろう。自分を退け、服する者が御霊を声を聞くことができる。そして御言葉をそのとおりに受け入れ、信じ、かつ従う者は幸いである。まことに聖書にあるとおりだ:

耳のある者 は御霊が諸教会に語ることを聞くがよい。-Rev 3:6

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>自分を退け、服する者が御霊の声を聞く事ができる

そうなのだと思われます。インペレーター(預言者マラキ筆頭?)の霊訓の5節には次のことが受信者モーゼスに対して言及されています。

「霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。小知を働かせてはならない。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならない。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ない。

いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にする預言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。そなたらの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。特にイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物――我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らない人々であった。一途(ず)なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。情愛にあふれ寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とせよ。さらに報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心を心とせよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措(お)いて他に成就し得る者は居ない。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らないであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。」

私は十字架の贖罪の教えを今現在保留していますが、イエシュア様に直接的に、もしくは間接的に霊的に交わって、十字架の贖罪の件に関して助言をいただけく機会にあずかる事ができればなぁと思っています。さもなくば死ぬまで贖罪の有無だけに限りませんが聖書の各聖句の教えに同意できないままとなり、「一体真理はいずこにあるのか!」といった葛藤の伴うすっきりしない状態が続くことになり、いち早くイエシュアとの交わりができるようになりたいと思います。

  • 2012/06/01 23:04
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