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善悪の木といのちの木、そして律法

うーん、実に不思議だ。再建主義の富井氏が「神の絶対的主権に服すること」を語り、そのためには「旧約の律法の本質を適用すること、それが永遠の命の木の道だ」と言われる。善悪の木といのちの木の対比から聖書を見ることは実にそのとおりだ。が、律法は善悪の木の路線に落ちた人類を守るために、まことのいのちなるキリストへともたらす養育係として(Gal 3:24-25)、付加的に与えられ(Gal 3:17-19)、それはいのちを与えることができないゆえに(Gal 3:21)、不十分な契約であり(Heb 7:11-13)、それを廃棄してキリストが新しい契約を立てられたのではないか(Heb 7:19)?次のスキームを参照されたい:

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富井氏の最近の論はかなり過激化していると思われる。いわく、「再建主義陣営に入らなければ生き延びることは不可能である」とか。彼の真摯な姿勢と主と御言葉に向かう態度はとても尊敬に値するのだが、何か根本的な部分で勘違いしている感じがするのだ。

今、私たち新約に生きる者たちにとっては、キリストにあって神のすべての約束が成就され、それを継承し、その中に生きる者として神の富に与り、永遠のいのちを享受しているのだ。再建主義に加わることが永遠の命を保障するのではない。主義や神学が人を救うのではない。イエス御自身、そのパースンだ。キリストの死と復活に一体とされ、アダム系列からキリスト系列へと転換されること。これが私たちクリスチャンである。

それは特定の教団や神学を奉じることなどではなく、いのちの領域に生きることそのものである。それはモーセ律法の上位互換バージョンであるいのちの御霊の法則によって生きること。それは水に浮くようなものであり、十字架の死が実体化された魂の力が抜けるとき、きわめて安楽な経験なのだ。ロマ書7章から8章への転換ができているクルシチャンはそれほど多くはない。大方、ニッポンキリスト教的クルシチャン状態なのだ。富井氏のために祈るものである。

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