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人手によらず・・・

キリスト教がなぜ人を狂わせるか。それは人為的なものによって神の国と義を実現しようとするためだ。人の「何か」が入る時、それは例えばキリスト教的価値観、神学、文化、思想、哲学、儀式、実践などなど、神の国は残念ながら歪む。食べられる野菜から食べられない木へと変質する。これを煽るのが人の熱心だ。純粋さと熱心さはもっともアブナイ。私はこのような人々が悲惨な末路を辿ることを何件も見聞きしてきた。立派な牧師の家族が精神的に病んだり、献身的な人の子供が生を断念したり・・・。はっきり言うと、人の純粋さとか、熱心さとか、それらはすべてフェイクに過ぎない。そのフェイクを表向き維持しようとする不自然さが、その影の部分を周囲の人に負わせてしまうのだ。

主イエスは多分、いわゆる熱心さを醸してはいなかったのだ。食をむさぼる者、大酒飲みと嘲られた主の有様は、きわめて脱力系、前から言っている通り、イエスはキリスト教の教祖でもなければ、その創始を目的にされたのでもない。彼はただそのいのちのままに自然体で生きたのだ。これが純粋かつ熱心な宗教者の嫉妬を生んだ。純粋さとか、熱心さと言う罠。主イエスが今ここにおられたら、まっさきにキリスト教徒により断罪されることだろう。

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」-Mark 4:26-29

この点、矢沢の問いかけは急所を突く-アー・ユー・ハッピー?

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Comment

坂井能大

新共同訳ですが、
「人の怒りは神の義を実現しないからです。」
というのはアーメンです。

…吉祥寺のヤフオク転売屋を含むかどうかは、ご想像にお任せします(笑)

まこ

アイ アム ハッピー。アイ アム イナフ。充足、安息、と言い切れる、私は不十分、不足、不完全、だけど、主に在って十分って言える私はやっぱりアイ アム ハッピー。

  • 2013/01/30 20:30
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イェシュア様は酒をたしなむ程度でしか飲まれていなかったと信じたいですが・・・。イェシュアが自然体であるとのことですが、関連する箇所がインペレーター霊訓(マラキ霊によると思われる)の30節にあったので、僭越ながら敢えて紹介させて頂きたく思います。

「イエスの生活の特質は威厳と謙虚の合体であった。威厳さと平凡さとの結合にあった。威厳さが発揮されたのは誕生時と死亡時、その他、ヨルダンにおいて霊がイエスを試し、その使命を神聖なるものと認めた時等、その生涯の節目にいくつか見られる。住民はイエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていた。その生涯が俗世間の社会生活や家族的関係によって束縛されるべき人物でないことを知っていた。と言っても、イエスを取り巻く生活の和気あいあいたる雰囲気は、イエスにとって心地良きものであった。それを住民は理解していた。聖書はそうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分である。イエスの言葉と行為が住民に及ぼした影響に関する言及が余りに少なく、一方、いつの時代にもあるように、新しき真理に楯ついた当時の学者並びに貴族階級の愚かなる誤解についての言及が余りに多すぎる。律法学者、為政者、パリサイ派、並びにサドカイ派の学者は挙(こぞ)ってイエスの敵にまわった。今もしイエスが当時の真の姿のまま教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者も挙ってイエスを嫌い、あるいは迫害することであろう。」

  • 2013/02/03 02:08
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