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Dr.Lukeの一言映画評

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いくつか観たいものがあるが、本日は『脳男』。生田斗真が美しきサイコパス的人物を演じている。感情がない人間。私たちの魂は知・情・意からなるわけだが、この三つの機能の統合が失われるといわゆる分裂病。今回の"鈴木一郎"は感情が欠落しており、あたかもプログラミングするかのように、状況に応じた感情的反応を学習していくのだ。しかし知性はきわめて高く見た物をただちに記憶する。ちょうど自閉症のサヴァン症候群のような能力を有する。ゆえに彼を最初に診た医師は、彼を「能男」と命名した。そして彼は自らの価値観に従って悪人を処刑していく。彼を診る精神科医も実は過去にトラウマを抱えている。そのトラウマを乗り越えるために仕事をしている。が、その仕事は"鈴木一郎"によって崩壊させられる。・・・なかなか現代的な設定だ。映像も十分に怖い。

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似たモチーフの作品として、『ストロベリーナイト』がある。これも一週間前に観ているのだが、書き忘れていた。ドラマのDVDも見つけ、一通り見たところだ。なるほどこれで登場人物などの関係や裏が分かり、映画も視界が広がって楽しめる。この女刑事姫川玲子が高校時代にレイプされると言うトラウマを抱えている。その時に流した自分の血を自ら贖い、そのトラウマを乗り越えるために、ほとんどすべてを投げ打って仕事に没頭するのだ。女の勘が彼女を導くが、時に大いなるミスをする。彼女と部下の菊田刑事のやや酸っぱい恋愛関係も見どころのひとつ。

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ついでにDVD作品の『罪と罰-A Falsified Romance』。そう、文豪ドストエスキーの原作を現代的にアレンジしたもの。これも社会の悪に呻吟する純粋かつ正義感を持て余す若者が犯罪者に自ら天誅を下し、自らが犯罪者に堕ちる。彼の座右の銘は「崇高な目的のためならば、流した血は贖われる」。倒錯した正義は狂気を生む。ただし、これは現在進行形にて、評はまた後程・・・。

これらの作品の共通項は、人間が人間を裁くことの闇。主イエスは「裁くな、裁かれないために。人は自分の秤で測り返される」と言われたが、まことに人が人を裁くことは、その物差しをもって自らを神の前に置いてしまうことを意味する。神は御自身の義以前に、まずその本人の物差しを突きつけるのだ。彼は自らを自分で裁く。そして憐れみを示さない者は憐れみを受けることなく裁かれる。何と言う恐るべきこと。人に裁かれていることの方が幸いだ。また流された血を人間が贖おうとすることは主イエスの十字架と御血に対する冒涜。この意味で現在のニッポンキリスト教の狂気の入った告発合戦の悲惨な有様などは、まさにこのドストエフスキーの世界と言える。彼らはその動機においてすでに裁かれている。まことに-

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。・・・ あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。-James 1:20;2:13

追記:ちょうど再建主義の富井氏も同じ問題意識の記事を書かれている、「神を出し抜くな」と。まことにアーメン。ただ、蛇足だが、モーセに神は、一度目は岩を打てと言われ、二度目は、岩に命じよと言われた。が、モーセは二回とも岩を打ってしまったのだ。人の裁きはモーセが二度目に岩を打ったようなものだ。それは神を出し抜いている。神の主権に触れているのだ。むしろその打つ行為は自分に返り、自ら神の裁きにより良き地をミスすることになる。

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インペレーター(マラキ霊と思われる)霊訓2節に関連することが述べられています。

「罪人は訓え導いてやらねばならぬ。罰するのはよい。われらの世界でも処罰はする。が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための一種の見せしめであらねばならぬ。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならぬ。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろう。然るにそなたらは罪人を寄せ集め、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまう。その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。かくの如き扱いを受けし者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。即ち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。」

  • 2013/02/09 23:27
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インペレーター霊訓3節にも関連箇所がありました。

「罰は常に罪そのものが生み出す。それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。法を犯したことによる不可避の結果なのである。その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を培(つちか)うことにもなる。これが、誤れる方向より戻し、過ちを償わせ、その結果として魂に新たなる希望を育んで行く、その第一歩と言えよう。彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し伸べることも出来る。悪の影響より完全に隔離される。やがて悔恨と無念の情が湧いてくる。性格は優しく温順となり、善の影響に感じ易くなる。かつての頑(かたくな)で冷酷で反発的態度は消え失せ、魂が進化しはじめる。過去の罪の償いも終わり、良心の苛責もすっかり和らいでいる。こうした過程はいつの時代にも同じである。さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。が、神はそうはさせぬ。」

  • 2013/02/09 23:47
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RAMTHA ホワイトブックから

「他の存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るときその表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分のうちに変質した見方を作り出すことになる。そして、自分の知覚したものは、自分がそうなるものでもある。その想念は、自分の内にフィーリングとして刻まれるからである。つまり、あなたは自分自身を犠牲にすることになるのである。なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。魂に記録されたそのフィーリングは、それから先の自分の行動と、自分自身の存在そのものを判断する前例をつくってしまうのである。
 
 誰かを責める時、それはその人の内に見える自分のある側面を責めてるに過ぎない。その他人は、あなた自身の内なる価値判断を映す鏡として機能したに過ぎず、あなたが他の人間から受容してきた自分自身に対する価値判断を、しっかりと見直すための道具としてそこにあるのだ。」

  • 2013/02/10 00:30
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