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イスラムからの提案、神殿再建

Oh, What Love

イスラムではイエス*1は偉大なる神の預言者である。ソロモンも同じ。彼らにとってもエルサレムの神殿の丘は神聖な場所。現在、現地ではユダヤ教徒とイスラム教徒の間で小競り合いが起きている。ダニエル書の最後の70週目の中間で荒らす憎むべき者が聖なる場所に立ち、自らを神と宣言する。これは主イエスの言葉でもある(Matt 24:15)。すなわちその時までに神殿が再建されているべきなのだ。が、現在はいわゆる黄金のドームが建っている。ソロモン神殿を再建するためにはこれが邪魔だと言うわけで、これを破壊しようとする一部の過激な動きもあるのだ。

ところが今回、実に興味深い発言が飛び出した。イスラム教徒にとってもソロモン神殿の再建は歓迎であると言うのだ!つまり、平和裏のうちに神殿の再建を行うことも可能になる。おおおお!なるほどこんな手があったのだ・・・。(写真は1/50の神殿模型)

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As a devout Muslim, it would be a joy for me to see Prophet Solomon’s Temple rebuilt as well. No, you did not hear me wrong. Prophet Solomon’s Temple being rebuilt in all its magnificence and glory would be a great delight for me, as it would be to any Muslim. Under different circumstances, in an atmosphere of trust, love and brotherhood, Muslims would welcome this with enthusiasm. The Temple of Solomon is also a historically important place, and rebuilding it would be a wonderful occasion for all believers to contemplate. Every Muslim, every believer, will want to experience the spirit of those days again, and strive to bring the beauty of those days back to life. Actually, it is everyone’s aspiration for that city to be adorned, to be beautified, and to regain the magnificent glory it had in the days of the Prophet Solomon.

*1:イスラムでは「イーサー」。彼らはイエスの処女からの誕生を信じ、その奇跡のワザも信じている。が、神の受肉とは認めず、単なる人であり、預言者であるとする。さらにその十字架による死と復活も認めない。イエスは死ぬことなく昇天したとする。サタンが否定したいものは何か、これで分かる。死がなければ流された贖いの血もない。さらに復活もない。血と死と復活。これこそサタンにとってはもっとも急所を突く真理なのだ。逆に言えば、これを主張すると必ず敵側が狂気の入った反応と攻撃性を示す。これはすでにニッポンキリスト教で証明済みだ。

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マラキ(聖マラキとは違う)霊によると思われる「Spirit Teachings」 9章にキリストの十字架に関することが書かれていますのでご紹介します。

9節抜粋:「己の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛――これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲(いけにえ)として怒れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること――身は地上にありても魂をより一層神に近づけて行くこと――これぞ真実の贖いである。キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の顕現の一つであり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。」

「もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、わが子に大権を委(ゆだ)ねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れない。キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これはキリスト教会においても比較的新しき説である。」

「われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在――わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話――そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説・・・」

キリストの十字架の死による罪の贖いについて私は上記などの理由などにより懐疑的です。主を日々怒る暴君といった擬人的存在に仕立てている。罪がもう許されているとしてなんでもOKだと思い違いをし、堕落した生活に至らしめるからです。また地上時代の在り方は死後にも大きく引きずること、死後一夜にして罪を重ねた存在が聖なる存在に反転し、即座に神のもとにかしずけるものではないと考えるからです。早急に結論を下すことは命取りとなるかわかりませんので今後も贖罪に関しては内なる聖霊に問いつつ、真実を追究してゆくつもりです。最悪死後に贖罪の真偽を悟ることになるかわかりませんが・・。

参考サイト: http://www.meilach.com/spiritual/books/st/spteach.htm

  • 2013/03/20 02:19
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