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荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの知的な礼拝です。-ローマ12:1

 この節は私たち個人のレベルを超えて、全体に益になるところまで私たちを導きます。「捧げる」ことは個人のことですが、礼拝(奉仕)は全体のことです。主の元に捧げられる多くの体があります。しかし、その結果は一つの生ける供え物です。すべての神に対する知的な、あるいは合理的な奉仕とはこのようなものです。それは本質的にはひとつの奉仕であるのですが、私たちも個人個人としてその中に分を持っているのです。誰も自分の捧げ物が価値のないものであると考えるべきではありません。なぜなら、それは多くの個別の捧げ物の中にあって、大きかろうと小さかろうと単独のものとはみなされないからです。それぞれのいのちは主に明け渡されるべきものであり、それらがひとつになって完全なるものとされ、神に受け入れられるものとなることを確信すべきなのです。そして神が満足されるのであれば、どうして私たちが満足を覚えないことがあり得るでしょうか?

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