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荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。-ヨハネ17:21

 神の知恵が霊的諸勢力に対して現されるのは「エクレシアを通して」です。私たちが御霊により神の住まいとされるのは「共に」です。今日、神の子供たちがひとつの体として機能していないために、彼らは漏れのある器のような状態にあります。ガラスの容器を粉砕したら、どうなることでしょう。それぞれの破片には僅かの水が付着するだけで、粉砕されていない容器に溜まる水量に比べたらほとんど無に等しいのです。霊的にも同じことです。個人は二つの次元で受けることがでるだけですが、エクレシアは三つの次元で受け取ります(訳注)。一万人のクリスチャンが存在することはひとつのことです。一万人のキリストの肢体が存在することはまた別のことです。その御自身の豊かさの中から、頭なるお方は有り余るほどの豊かさを与えて下さるのです。しかしそれを保持するためには、私たちはひとつの器、ひとつの体とされる必要があるのです。

訳注:個人はキリストと自分だけの関係だが、エクレシアでは、それにプラスして、キリストを頭とする御体からの供給がある、ということ。

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