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ことばが与えられる瞬間(とき)

今朝もイイ走りだった。朝はサイコウだ!蝉の声がすごい。今、昨日の江の島の夕日に輝く波の輝きが徐々に熟しつつある。後はことばが与えられると詩になる。霊的なことがらも同じだが、霊の内に何かインプレッションが与えられても、それにことばが伴わないと人々と共有することができない。適切なことばが与えられるまではけっこう苦しむことも多い。しかし時が熟し、十分に発酵すると、ピタっとすることばが与えられる。これが神による個人的語りかけであり、啓示となり、これを語り出すと預言だ(cf.預言の霊的機序)。

今回Saltさんの友人のSignさんが森の中の渓流でバプテスマを受けられた。その証がChapter29にUPされている。神の時を証しされているが、それを伺いながらちょっと思わされた。多分、キリスト教が組織される前にはこのような形で福音が広がっていったのだと思う。

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、"霊"に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。-1Cor 2:12-14

さて、本日はSix-Treesでちょっと飲む予定。

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