正法眼蔵生死(改)
- 2013/09/13 18:45
- Category: 信仰
- Tag: 道元 正法眼蔵
旧いブログで紹介した道元の『正法眼蔵生死』のDr.Lukeヴァージョンを再録しておきます。原文はこちらを。
生死の中に基督あれば生死なし。又云く、生死の中に基督なければ生死にまどはず。
こころは、甲、乙といはれしふたりの禪師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかに基督をもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。
生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、いのちの御霊の法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。
この生死はすなはち基督の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち基督の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも基督のいのちをうしなふなり、基督のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて基督のこころにいる。ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督ができる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
基督ができるに、いとやすきみちあり。もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを基督となづく。又ほかにたづぬることなかれ。合掌
shige
すごい!道元や親鸞は聖書も読んで真摯に真理を求めたのでしょうね。今のキリスト教神学よりはるかにまともな福音理解だと思います。彼らに足りないのはキリストの命だけ。合掌。