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為道日損

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秋と言うのに、この生暖かさはなんだろう?肌をなでる風もモワっと温かく、やや気持ち悪い。もちろん走り自体は爽快だ。学生に朝からやたらテンションが高いオヤジと言われているのだが、本日もすでに萌え燃えている。

最近、少々老子にハマっているのだが、禅出身のDr.Lukeとしてはそのルーツを見るような感じもしている。孔子が「仁・礼」に基づく理想的人間像や生き方を説くのに対して、老子は脱力を説く。意志的力が抜けるとき、本来のいのちの法則のままに生きるとする。もちろんキリストの復活のいのちは得ておらず、アダムにあるいのちの法則ではあるが・・・。しかしアダムはキリストの型、したがって老子の説く生き方はキリストにある者の生き方の型と言える。

学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損す。これを損して又た損し、以って無為に至る。無為にして為さざるは無し。天下を取るは、常に無事を以ってす。その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。

人は理想の生き方やシアワセを得ようとする。キリスト教徒も神に受け入れられ、認知され、人からも褒めそやされる祈り方や奉仕や信仰的歩みを切に求める。かくして「教会ごっこ」に明け暮れる。この自己由来の意志がすべてを汚し、壊す。ああ、愚かなものだ。その時点で神の恵みから落ちてしまっている!主イエスも言われるではないか:得ようとすれば失い、失えば得る、と。

神の国は人手によらず成長し、人はどうしてか分からなくてよい。かくして神の国にあって健やかに豊かに、そしてハッピーに生きる鍵は「為無為、事無事、味無味」なのだ。

追記:Candyさんのブログにすばらしい証がありました。題して「ラーファー!」、ふにゃっと力を抜いて御手に委ねる幸いです。

Comment

zion

ちょっと仕事のことで思い煩っておりました。愚かでした。委ねます。。。

  • 2013/10/09 20:47
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 無の存在になりたい。無であれば、光も体験できないけれど闇を体験する必要もなくなるのではと思うのですが、聖書の教えからは外れるかとは思いますが霊というものがあり永続するものだとして、霊的成長をしていないうちは死後ある期間を置いて再度肉体に宿り、重い鎖を引きずって地上生活を送ることとなり、かなり厄介に思っています。社会意識の暴露下に置かれることや、いろんな穢れた思いをよこす邪霊の存在やイルの存在なども厄介だし・・・。

 無為でうんざりな人生(と言うかアホ?)を送っております。しかし私の今回の人生で(次はないかも?)イエシュア様の存在の名を知る機会に預かることが出来たことは唯一ラッキーでありがたいことなのかも知れないと思うこともあります。

 人生は幻想であるとも聞くし、無になれたらいいのにと思うことが多々あります。 たわごとでした。

  • 2013/10/10 01:04
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