Entry

トップ > 科学 > 利根川博士は一元論者

利根川博士は一元論者

日経で連載中の「私の履歴書」で利根川進博士が書いている。免疫の多様性がいかに生じるかを巧妙な実験で明らかにしてノーベル賞を受賞したが、その後、脳研究に転向された。私が一番知りたかったのは、心と脳の問題についての彼の立場だ。昨日、デカルトの二元論、DNAの構造を見出したフラシス・クリックの一元論を紹介し、今朝、冒頭で、自分も一元論であると表明されている。つまり、精神や心は大脳のニューロンネットワークとシナプスにおける神経伝達物質の化学的作用によるとするわけだ。もっと言えば、人間とコンピューターには本質的相違はないことになる。それは複雑さの規模の違いに帰着する。ゆえに彼は人間とは何かを明らかにするために脳研究に取り組んでいると書いている。これは『唯脳論』の養老猛司氏も同じ立場。

創造者なる神についてはまだ何も触れていないが、次にはこの点を知りたいところだ。私も精神機能や心がいかなるものか、実に知りたい。同時にニューロンの機能やそのネットワーク、そしてシナプスの機能などを解析して、果たしてその延長上に精神機能や心を明らかにできるのだろうか、と疑問も感じている。これを考えると何とも絶望的な気分になるし、神へのチャレンジであると感じ、ある種の怖れを覚えるのだ。人類はDNAの世界ではすでに神の領域を侵している。しかして、神は明らかにこう言われている:

知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。-Job 38:2-8

人が真に神を知るためにはヨブの経験が不可避なのだろう。自分が得ているパラダイムのすべてが一旦は崩壊する必要があるのだから*1。死と復活の原則は神の絶対基準である。なぜなら神はキリストにあるもののみを良しとされるのだ。この意味で「ありのまま神学」などは神の裁きの前では風に吹かれるティッシュペーパーのようなものだ。そして復活は人間が関与し得ない神御自身の業なのだ。これに与る者がクリスチャンである。いわゆる"Church Goer"などではないのだ。

霊から生まれる者は霊である-John 3:6

*1:これは"信仰"でも同じだ。ちなみにカトリックなどはすでに偶像礼拝のバビロン的異教そのもの。最近は、TwitterにUPしておいたが、アメリカの福音派は衰退の一途。当然だろう。私はすでに10年以上繰り返している、キリスト教は自己崩壊すると。否、すべきなのだ。ヒューマニズムに堕ちたソレは、むしろ神の忌み嫌われる宗教。セルフ教そのものなのだから。肥大化した魂の産物、忌まわしき体系。ニッポンキリスト教も着実に自滅の道を歩んでいることはすでに明らか。神は人の小賢しい業などは必要とされない。神は自ら証をされるお方、侮られることは決してないのだ。私たちはただ膝をかがめて拝するのみ。あなたは主権者なる神です、と。

Comment

Salt

「自分が得ているパラダイムのすべてが一旦は崩壊する必要がある」

本当にそう思います。私も養老さんの本はけっこう読んでますが、彼らはあんな絶望的な認識でよく精神が崩壊せずにすんでいるなあと驚きます。結局大して賢くないのかなと思ったり。

ヨブ記の中にはすべてがある気がします。「癒されないままの状態で」ヨブは真実を語らなかった友人の為に執りなします。これもポイントだと思います。

  • 2013/10/26 03:11
  • Edit

Luke

本当にそうですね。彼らは自分は物理化学的現象に過ぎないとするのですから。死に直面した時、彼らは何を想うのでしょうか?

ところでKoji君たちやりましたね :-)

  • 2013/10/26 07:03
  • Edit

Salt

Lukeさん、ありがとうございます。やりましたね!報告を受けるまではこちらから声をかけることも出来ず、悶々としていました。

  • 2013/10/27 10:12
  • Edit
Access: /Yesterday: /Today: