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荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。-マタイ11:29

 主と共に軛を共にするとはどういうことでしょうか?それは意志的に、心を合わせて、主と共に神聖な計画において協力することです。もちろん軛は牡牛を制限します。自分勝手にあちこちへとさ迷うことはできません。それはまっすぐに前に向かって歩ませるものです。しかしながら、そのようにして御業は成し遂げられるのです。ここで自分自身を何か偉大な者と考え、自分自身の野心の達成を目論むことなく、むしろへりくだる必要があります。神が望まれるところであれば、どこへでも、たとえ地の底であろうとも、喜んで行くことです。
 マタイ福音書のこの章において、主は公の務めにおいて明らかにフラストレーションを感じてられたことを見てとれます。ただ幼い者たちのみが理解し得たであろうし、それに応答することができたであろう、と。私たちならば、「何という威光の失墜であろう!」と叫んだことでしょう。しかし、そうではなかったのです。主のお言葉は、「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。・・・そうです、父よ。これがみこころにかなったこと」でした。主は何かを目論んだのではありません。主は父が願われることを完全に遂行しようとされたのです。ここで私たちが問われます。私たちは主の制限の中に留まり、主と共に歩むのだろうか、と。なぜなら、真の深い安息はこの「たましいの安らぎ」に入ることだからです。

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