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今朝の利根川博士

本日は出勤は午後から。朝もたっぷりと汗を流して、気持ちのイイ筋肉痛も出ており、ストレッチがビリビリと、これもまた気持ちがイイ。

今朝の日経紙の「私の履歴書」の利根川博士のことばにやや痛みを覚えた。いわく、(要旨)「自分の息子はあらゆることでデキがよく優れた科学者になるはずだったが、18歳で突然逝ってしまった。自分はこれまであまりにも幸運な人生だったので、宗教はないが、天が禍福を調整したのかもと思っている。実は前から「大丈夫かな」と思っていた。しかし息子を失うことはつらく、この十字架を一生負わなくてはならない。ノーベル賞など要らないから息子を返して欲しいと思う」と。確か事故死だったはず。

彼は今回の一連の記事では前の奥さんのことに一切触れていない。今の奥さんはNHKの記者時代に、取材を受けたことが契機となり、記憶が誤っていなければ、不倫で結ばれたはずだ。自分がまだ無名の時代に陰で支えた奥さんだったのだが、ノーベル賞授賞式にも今の新しい奥さんと出席したことに違和感を覚えたことを覚えている。つまり極私的には息子さんの夭逝は天の禍福の調整ではないと感じるのだ。どこかヨブとダビデを連想してしまうのだ。

公的・社会的な成功とプライベートな幸福はしばしばトレードオフだ*1。この世の神は主イエスとすら取り引きを試みた。いわく、私を拝すれば、世のすべての富を与える、と。多分、それぞれに分が分かち与えられている。その分をどこにどう配分するか、これが信仰なのだが、どうも前者に投入してしまうと後者の分は消耗してしまうようだ。この世ばかりでなく、ニッポンキリスト教で"成功"した牧師の家庭や子供がしばしば悲惨なのも決して偶然ではない。それは必然なのだ。ある姉妹が言っていた、日本の第一の教団の牧師の娘さんだったが、「私の父には三つの顔があります。信徒さんの前の顔、家族に対する顔、そして田舎の祖父と祖母の前での顔です。前のふたつは嫌でしたが、おじいちゃんとおばあちゃんの前での父は好きでした」と。

あらためてここでもYAZAWAの言葉は鋭い-

アー・ユー・ハッピー?

*1:みのもんたにつてはここでもちょっと触れたことがある。彼はまさにブーメラン。ま、論じるまでもないが。

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