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縄文時代への憧憬

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昨晩はちょっと怪しげな雰囲気の中で縄文文化論を拝聴してきた。石埜君が諏訪の御柱祭を解説して話の導入を作り、国学院名誉教授の小林達夫氏が縄文土器論を展開、その他のアーチストや歴史家たちがそれぞれに自分の見解を述べるという趣向。結構面白い点があったが、なんと言っても縄文時代は1万年以上続いたこと。しかも平和だった。現代的に言えば富の分配が実にうまくいっていたと言うこと。食べるためにも年に2,3ヶ月労働すれば必要なカロリーはまかなえた。だからこれだけの土器を作り得た。要するに彼らは精神性においてもリッチだったのだ。

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小林氏によると火炎土器のデザインにもルールがあって、それは彼らの世界観を表現しており、その世界観は何気に当時の人々の間で共有されていたのだとか。当時の人々の脳もすでに現代人と同じレベルであり、今の時代に連れてきて教育したら立派に現代人になれるそうだ。現代人は憲法を要とするコミュティを形成し、とりあえずの国家(体制はいろいろあれども)としてのアイデンティティを得ているが、彼らは互いに共有した世界観を要として共同体を形成し、アイデンティティも得ていたのだ。

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さらに石埜君によると、縄文人も現代人もさほど変わりはなく、もろもろの習俗や儀式において縄文性を見出すことができる。その中心は死と再生(写真は茅野市尖石遺跡の国宝「縄文のビーナス」。要するに妊婦の像。)。クリスチャン的に言えば死と復活だ。これは、吉村作治氏によると、エジプトの太陽の船なども同様で、死と再生のモチーフは人類普遍の霊的課題なのだ。クリスチャン的には、それはもちろん、キリストの死と復活において実体化され、神の力の証明とされ、そこにこそわれわれの希望と信仰があるわけだが。しかし、いつも言うとおり、この人類普遍の死と再生の課題と解決をキリスト教が占有したことに大きな悲劇があるのだ。

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アニミズムの根底に流れる祈りも死と再生にある。しかし彼らはキリスト教につまづき、キリストの死と復活を見ること、さらに私たち自身のキリストと共なる死と復活をなぜか拒絶する。これはニッポンキリスト教においても同じで、この点に対する彼らの攻撃は狂気を呈していることはすでにここの読者はご存知であろう。つまり、ある意味、それを解決してもらっては困るかのようなのだ。あるいは十字架の提示を拒否する傾向だ。あくまでも何か永遠の人類の神秘的課題として祭っておきたいような姿勢が見えるのだ。確かに今回のイベントのような雰囲気の中で死と再生が語られると何か不思議な魅力で惹きつけられるが、牧師がしたり顔で「かみっさまわ~」とやるとほとんど興ざめとなる。アニミズムの魅力の方がキリスト教の魅力よりもはるかに深いものがあるのだ*1

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4回も去勢され、クラゲのように浮遊する国家、アイデンティティの中核を失い、世界の力学の狭間をさまよってきたこの国が、変な形で目覚めようとしている印象が最近強い。それは現代のアイデンティティの喪失状況の裏返しだ。昨日のイベントの参加者も、どちらかというと今の社会において居場所を見出せない人々が多いような感じだった。あの場はイベントのタイトルのとおり"ワンネス"、つまり「ひとつになること」でかろうじて自分を確認し得ているかのような危うさを覚えた空間と感じた。すでに戦後のニッポンを支えたもろもろのパラダイムは崩壊し、若者が価値観や人生観を失い、現実的には貧困に陥り、人生設計もできず、行き先も分からず、さ迷いつつ、縄文の「光」に吸い寄せられている感じがした。こんな場があること自体、けっこう意外なオドロキを覚えたところだ。

2013年、曲がり角を曲がってしまったこの国とニッポンキリスト教の行くへは、どうもますますヤバクなってきた感がある。

*1:縄文人に福音を伝えること、これはけっこう大きな課題であろう。いわゆる神学などのキリスト教文化だのはまったく無意味であり、無力であろうから。

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