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年年歳歳・故故新新-戴復古

最近のTVは実に観るべきものがない。正月はもっぱらBSのニュースと映画、そしてDVDを観ている。これからランチと映画へと出かけるところ。

さて、2014年はしるしを見る年になると何度も語っている。いわゆる終末論にはまって人生を投げる人々もいるようだが、終末論自体に問題があるのではない。彼らの信仰のスタンスが間違っているに過ぎないのだ。聖書は明確にこの時代は終わると語っている。キリスト教も終末の兆候(背教)を見せている。「CT vs.山谷少佐」の件がニッポンキリスト教の試金石になると2008年に語ったが、今回明確な形としてこのギョウカイの本質が証明された*1。今後、着実にバビロン化するだろう。このギョウカイとのあらゆる関わりを絶つ事をお勧めする。

なお、一応断っておくが、キリストの復活のいのちを共有し得るもの同士として、個々の兄弟姉妹との交わりは尊ぶべきである。しかし彼らが何らかの組織や特定の教義や実行、あるいは価値観などを交わりの条件とするのであれば、彼らを避けるほうが賢明である。私たちの交わりの根拠はただ父と御子との交わりであり(1John 1:3)、人間的な組織や教団や教義などにあるものではない。すでにこのギョウカイは嫉妬と憎悪と偽りと狂気が蔓延している。そこに身を置くだけである種の穢れを受けるであろう*2。裸のひとりの人として、互いに交わりを得ることを願うものである。青い鳥は私たちのうちにすでにいますのであり、探す場所を誤ってはならない。小市民Dr.Lukeとしては、それぞれが自分の生活と人生に戻り、淡々となすべきをなし、楽しむべきを楽しむ、静かな生活を平々凡々と送ることを願うところだ。

そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。-1Thess 4:11

そこで紹介する一首。まことに2014年、年初にふさわしい。南宋の戴復古の一首。

江山 一夜の雨
花柳 九州の春
節を過ごして 事無きを喜び
懽を謀りて辰(とき)に及ぶを要(もと)む
年年 仍(ま)た歳歳
故故 復(ま)た新新
酒を把(と)りて余恨有り
従(よ)りて古人を見る無し

私たちの生とはまさにこのようなもの。大意は次の如くだ:

山や川は一夜の雨にうるおい、
花は咲き柳は芽吹いて、国中に春がきた。
春節を無事に過ごせたのがうれしく、
楽しむためには時を逃してはならない。
年年歳歳、時は流れ、
古きと新しきと、新陳代謝の繰り返し。
酒を飲めども消えやらぬ恨みは、
いかんせん古人に逢うすべのないことだ。
-佐藤保、『漢詩をよむ-中国のくらしのうた(秋~冬)』、NHKラジオテキスト

曹操が歌うように、人生いくばくぞ、だ。すでに10年以上前から言っているが、イエスのナザレでの30年の人間生活にこそ私たちの人間としての生活の鍵があるのだ。イエスはたぶん、この詩を深く理解し、私たちの生活を愛でてくださるものと思う。

*1:CTは依然として山谷少佐に法的な圧力を加えてきている。この執拗さはあの霊の性質である。
*2:内側にこびりつくような何か嫌な感覚を残されたり、平安や確信を奪われたり、罪責感を植え込まれたりすることはその兆候である。

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以前もご紹介しましたがキリスト者にとっても当てはまると思われるので、基本的な歩み方として再度紹介します。皆様にとっては当たり前かもしれませんが・・・。

インペレーター霊訓8節より

「1.父なる神を崇め敬う(崇拝)

2.同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)

3.身体を大切にする(肉体的養生)

4.知識の獲得に努力する(知的進歩)

5.より深き真理を求める(霊的開発)

6.良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)

7.祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)」

イエスの地上での生活は人類にとって最大の手本になるのだと思います。

また霊訓の抜粋になりますがどうぞ。 続きとなります。

  • 2014/01/03 22:57
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続きです

霊訓18節抜粋:「キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神についての進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図された真の目的すなわち人類の改革を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によりて価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純心で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践して見せたのであった。イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高い真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上の必要性を説いた。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する。そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にあった。そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。が、その自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示そうと努力した。真理の尊厳、人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめようとした。身分には拘らなかった。同志も伝道者も身分の低い貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴な訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に湧かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。

 人類にとって真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとりて唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。」

  • 2014/01/03 23:08
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