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2014年のチャレンジ2

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。-Matt 18:20

ここの「において」のギリシャ語の単語は"eis"。普通、英語では"into,unto"と訳される。そしてこの小さな前置詞が実に重要なのだ。私たちは誰の名にintoして集まるのか?名とその実質は分離不可能だから。この名を誤ると主ご自身不在の集まりと化す。その時、先に書いたとおり、『パーパス・ドリブン』だの、ドラッガーだの、小賢しい人間の手の業が侵入するのだ。終末に生きる私たちが地上の歩みを進める上で、この点、きわめて重要にして致命的なものとなるだろう。老子にいわく-

企(つまだ)つ者は立たず
跨(また)ぐ者は行かず
自ら見(しめ)す者は明らかならず
自ら是とする者は彰(あらわ)れず
自ら伐(ほこ)る者は功なし
自ら矜(ほこ)る者は長ぜず-老子二十四章 

かくして今週のニーの黙想にあるとおり"idle(無為)"でいること。自分が用いられているとか、神の業に預かっているとか、自分では何も知らないことは幸いなのだ。

無為を為し、無事を事とし、無味を味わう-老子第六十三章

それは真の道(タオ)であるお方の業なのだ。

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:29-29

かくして兄弟姉妹、ブラザー・ローレンスの言う「聖なる怠惰」を楽しもうではないか。

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>「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるから」

神との対話1によると別の意義があることが言われています。抜粋なので判りにくいかもしれませんがどうぞ。

「エネルギーは似たもの同士がひきつけ合う。そして似たエネルギーのかたまりをつくる。似たような塊がたくさん出会い、ぶつかり合うとお互いにくっつきあう。こうして考えられないほど膨大なエネルギーがくっつきあうと物質ができる。・・・。同じ精神をもった人々が力を合わせれば好ましい現実を作り出せるということを、あなたがたはそろそろ理解すべきだ。二人でも三人でも、私の名において集まる所には私もいるからです。というマタイの福音書の言葉は、大きな意義を持つようになる。もちろん、社会全体がある考えを持つようになれば(集合意識あるいは集合的無意識と思われる)、しばしば驚くべきことが起こる。必ずしも、社会を構成する全員でなくても良い。たとえば、不安と恐れのなかで暮らしている社会には実際に、そして必ず最も恐れられる形の恐怖が生まれる。同じように、大きな共同体や集団が考えをあわせることで(同じ言葉で祈ることで)しばしば奇跡が起こる。たとえ個人でも、その考えが(祈り、希望、願い、夢、不安が)驚くほど強ければ、奇跡的な結果を生み出す。イエスは度々これを実践した。彼はエネルギーと物質をどう扱うべきか、どう組み合わせなおし、配分しなおし、コントロールするかを理解していた。」

この原理がホントだとすると例えば、地球滅亡を恐れている人が居ればいるほど滅亡が引き寄せられることになるのだと思います。地球滅亡キャンペーンを電波を介してやってるイルミナ茶やある意味キリスト教は人類を滅亡に導いているのかもしれません。

  • 2014/01/06 21:02
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上に「イルの連中やある意味キリスト教は人類を滅亡に導いているのでは」との意見をコメントしましたが
有名なブログカレイドスコープにキリスト教原理主義者や終末論者が世界支配をもくろむ者達に利用されていることを指摘しています。このことはキリスト教信者の意図しないことだとしても、やっかいなこととして捕らえるべきだと私は思います。どのような形であれ、聖書預言は成就するからプロセスはどうでもいいといった考え方はどうかと私は思います。

UFOsとキリスト教終末論(抜粋)
「少なくとも言えることは、キリスト教原理主義者、福音派の人々の固い信念=ラプチャーが米政府内にパラサイトしている世界支配層に利用されている、ということでしょう。そして、そのパラサイトしている世界支配層の魂の奥底に棲んでいる存在は、まるで”ぬえ”のように、一定の形がなく、その局面、局面で”人々に憑依”している、ということです。今、憑依されているのは福音派。そして、福音派の強固な信念を集団思念として束ねて、一筋の道をつくっている人たち。その人たちは、厳密な意味では、もちろんクリスチャンではなく、旧約聖書の預言的シナリオを、ひたすら成就させようとしている世界的な陰の勢力。そもそも、旧約聖書はキリスト教勃興前に書かれたもので、本来は聖書とは相容れるものではないのではないか。”旧約”と”タルムード”を組み合わせてユダヤ教とし、”旧約”と”コーラン”を組み合わせてイスラム教とした同じ連中が、旧約を無理やり組み込ませて聖書としてアレンジしたのではないか。ここにも、ミトラを駆逐してしまった”ぬえ”の姿が浮かび上がってくるのです。そして、今、この”ぬえ”はキリスト教の福音派の人々に、より強く”憑依”しているように見えます。少なくとも現実的に見たとき、イルミナティは、聖書、コーランの預言を下敷きとして、着々と”終末の時”を演出すべく準備を進めているように私には見えて仕方がない」

カレイドさんはコーランが捏造されている可能性があることをおっしゃっており、聖書ももれなく捏造されている可能性をほのめかしておられるようですが、私も同意権です。一字一句を文字通り解釈してそれを絶対無謬の神の言葉とするのはどうか思います。少なくともコンスタンチヌスのニケーア会議による聖書の編纂時に経典の取捨選択がなされ、あるいは書き換えられている可能性も考慮した上で聖書を注意深く読まないといけないと私は思います。聖書には矛盾が多く見受けられますし。

ディーン・ダドレー著The History of the First Council of Nice

http://books.google.co.jp/books?id=-WpMPj0nE0oC&pg=PA48&lpg=PA48&dq=dean+dudley+first+council+of+nicea&source=bl&ots=a8-OUvc5gM&sig=YoaWi2qyRISShuMoGgKs_plgUNY&hl=ja&sa=X&ei=lGfMUrOoL4qQkAX43oHYBQ&redir_esc=y#v=onepage&q=dean%20dudley%20first%20council%20of%20nicea&f=false

佐倉 哲氏 聖書の間違い: http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html

  • 2014/01/08 05:53
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今さらなのですが、誤字脱字がありますので訂正します。

Ⅹ :「聖書ももれなく捏造されている可能性をほのめかしておられるようですが、私も同意権です。一字一句を文字通り解釈してそれを絶対無謬の神の言葉とするのはどうか思います。」

O :「聖書ももれなく捏造されている可能性をほのめかしておられるようですが、私も同意見です。一字一句を文字通り解釈してそれを絶対無謬の神の言葉とするのはどうかと思います。」

ちなみにカレイドさんのブログ「UFOsとキリスト教終末論」は次のURLとなります。

「UFOsとキリスト教終末論」 http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-254.html

聖書の再検討の必要性をインペレーター霊団(マラキと思われる霊が総指揮)が啓示しています。

霊訓25節抜粋:「我らの手引きによる聖書の再検討において、そなたは正しき結論に到達した。そなたをその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承を纏めたものに過ぎず、そのカギを知らない者には見分けのつかないものであるが故に、如何に信の置けないものであるかを知らしようとするが為である。我らはこの点を篤と訴えたい。そなたらの宗教書より引用される言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用される書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。いかに古い書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒とく的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を啜って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとしても、正しい理性を物差しとした判断以上のものとはなり得ない。それ故に、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことのないよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。」

続きがあります

  • 2014/01/11 18:00
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霊訓25節抜粋の続きです

「今一つ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じて余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。この誤りはすでにそなたの頭からは取り除かれている。その証拠に、最早やそなたは神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるとは思わないであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うこともないであろう。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒(預言者)を通じて送られ、その途中において歪められたのである。

そうした誤れる言説に代わって我らは、啓示というものがそれを送り届けようとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今そなたの前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定しなければならないことに気づくであろう。」

 聖書を読む際は真偽を見分けるために理性を働かせつつ、なお内住の指導者なる聖霊にお伺いするという形をとることが大事なのだと私は思います。

  • 2014/01/11 18:32
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