霊における礼拝-今、ここで-
- 2014/01/20 21:01
- Category: 信仰
- Tag: 霊 礼拝 ニッポンキリスト教
本日はどこぞで主にある素晴らしい交わりが実現したようだ。私もお誘いをいただき、メールに流れている解放感と喜びの霊を感じることができた。仕事で参加は相成らなかったが、霊は共にいてその交わりに与ることができた。次回、よろしく!
私たちの交わりは御父と御子の交わり、それが二人または三人がイエスの名の中に集まるとき、互いの霊において共有されるとき、それがエクレシアの表現なのだ。
わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。-1John 1:3-4
ニッポンキリスト教のある種の人々にあっては、正統な礼拝とは午前10時からのものだけとか主張される向きもあるようだが、実に愚かなもの、笑い話だ。主はこう言われたであろう:
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。-John 4:21-24
礼拝の場は私たちの霊にある(→至聖所について)。私たち自身が神殿であり神の宮なのだ。道元が仏道とは生活の雑事そのものであると言ったように、礼拝は「今、ここ」にあるものなのだ。正統な主日礼拝とか、儀式や伝統、教団や教派のフレームを取っ払えば、おそらく御霊の自由な流れが起きる。リバイバルとは特定の場所に人々を集めることではない。この霊の流れに浸り、それを楽しむこと。
繰り返すがイエスが地上におられたとき、もっともイエスに対立したのはユダヤ教だった。現在、霊にあるキリストの働きを阻害するものはキリスト教。これがイエスの名を用いて*1、この霊の流れを妨げているのだ。イエスはキリスト教の教祖でもなければ、キリスト教を興したのでもない。ご自身のいのちを分け与えて下さる方なのだ*2
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。-John 10:10
*1:というか、イエスの名を用いない傾向が生まれている。ニッポンキリスト教では、「かみっさまわ~」とやるケースが多いのだ。
*2:つまらん神学理論とか論争にはまっている人々は、ぜひ今週のニーの黙想も参照されたい。

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インペレーター霊訓には、神学は人工的想像の産物であり、羽ばたこうとする魂を地上に釘付けにする拘束物である危険性が指摘されています。
霊訓18節抜粋:「神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えようとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵を掛け、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もいないと言うのである。硬直化した神学、人間の発明した用語にて勝手に規定した頑な信仰、その道より外れた者は神より見離されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説・・・これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたこうとする魂を引き止め、地上に釘付けにしようとする拘束物であると言うのである。そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊(聖霊と同義と思われる)のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによって真理の日の出を見るに至る方が、どれだけよいか知れない。その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれなくとも良い。冷たい風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古い教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遙かに良い。複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわないものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによって、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方がどれほど良いか知れない。己に正直であること、そして恐れないこと、これが真理探求における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ない。そしてこれさえあれば必ず進歩する。このことを主イエスの生活に示されたる模範の中に今少し見てみなければならない。・・・。」
10年以上も日本キリスト教会の敷居を跨いでいないのですが、かつて何回か跨いでみた印象としては、例えば何とか教団の場合、いや福音派もだったか?「賛美」というよりはなんかの発表会?ドラムをドコドコ打ち鳴らし、あるいはクワイヤーベル?を器用に鳴らし、自己顕示欲をそれなりに満たしておられる臭い演奏者がいたり、他には新参者の私が信徒の女の子に握手を求められ握手したのが気にいらなかったのか、体当たりしてきた野郎がいたりと実に辟易し、肩身の狭い思いをした記憶がありました。それでいてお説教の内容もルークさんのご指摘する通り、砂糖まぶし中身のあまりない聞きたくもないメッセージだったりする。キリストとの交わりの話など微塵もない!脚を運ぶだけ無駄というよりは毒されるといったほうが適した発言かもしれません。私としてはキリスト教会に関わるよりは、KFCのメッセージやスピリチュアリズムの書籍を読む方が遥かに遥かに為になっています。今のキリスト”業界”はさらに改悪されてそうでこの先も跨ぐこともない。