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人生の総決算の時期にゼロからやり直せるか

との記事をいつもの再建主義の富井氏が書かれている。とても重要かつ同意なので一部引用させていただく*1

tomi 2014/02/02(日) 07:10
人生の総決算の時期にゼロからやり直せるか
(3)
われわれは、一生「ただひたすら伏し拝む」姿勢を貫くことを要求される。
老年になっても、一番大切なものを捨てるかどうか試される。
アブラハムはイサクを神の命令のゆえに捨てられるかどうか試された。
身近な人がこの試練に失敗したのを見てきた。
老年になって後継者を自分の息子に据えるために、正当な主張をする役員を蹴落とした人がいた。
その団体は、瓦解し、息子もだめになった。
なんでも握りしめて所有すると、失敗する。
手を開いてその上に載せて所有すべきだ。
つまり、いつ神に取られてもかまいません、と。

(4)
福音派の教会でも「すべてを捨てて主に従いましょう」と言われるが、もし本当にそれを信じるなら、とうの昔に再建主義になっているだろう。
しかし、実際は、ものすごい抵抗に遭う。
まずわれわれの主張を口に出したら速攻で追い出される。
「これまで主張していたことを変えなければならなくなる」と恐れるからだ。
しかし、言っておく。
「神の前でこれまでの業績など、全部ぶん投げろ」と。
「間違っていた!」と気づいたら、「そうです。間違ってました。今まで間違った教えを信じ、それに基づいて活動してきたことを悔い改めます」と言うしかない。
アブラハムがイサクを犠牲にしようとしたように、「積み上げたもの」「自分の人生そのもの」を神の御前に差し出すしかない。
握りしめて、頑固を貫き、横車を押すと自滅する。
捨てるならば「神の山に備えあり」で、神が損失を補ってくださる。
老年になって自分の立場を変えるのは、屈辱的であり、勇気がいるが、それこそ神が望んでおられることだ。
アブラハムが老年になってやっと子供を授かり、その子供を差し出すよう求められたのは、アブラハムに「全的献身」を求めるためである。
神はあえて「酷な」状況を作りだされた。
われわれは、人生の総決算の時期に、ゼロからやり直せるかどうかを試される。
契約の民の代表であるアブラハムにそれが起きたということは、われわれにもそれが起きるということだ。

これは先に言った、生命現象にとってはストレスが不可欠であるとのひとつの例であると思うが、まことにそのとおり。アブラハムもそのストレスを通過してまことのいのちを知り、新しい都の幻を見ることができた。

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。-Heb 11:8-9

ここに信仰とは

Now faith is the substantiating of things hoped for, the conviction of things not seen. -Heb 11:1

すなわち望んでいる事柄の実体化である。アブラハムは年老いてようやく授かったイサクを捧げることにより、その信仰を証明し、神からの幻と報酬を受けた。イサクを握り締めていたら、彼はそれを得ることがなかったであろう。なにより自分で一切を握らないことは何と言う安楽なことか!自由でいることの祝福とも言える。この点、先のYAZAWAの問いかけにイエスと答えるための秘訣とも言える。

イエス、アイ・アム・ハッピー!

*1:ただ一点、すべてを捨てれば再建主義になるとの主張は???だが、いつものことながら・・・もっと言えば、富井氏自身は再建主義を捨てることができるのだろうか?主義や神学などを捨てて残るもの、それは内なるいのちのキリストなのだが。ウォッチマン・ニーも52歳の、これから人生の収穫期と言うべき時に中国共産党により捕囚となり、収容所で20年間の人間的にはまったく無駄な晩年を過ごした。が、それは神にとっては麗しい捧げ物の香りであり、ニー自身も自分が得るべきものを明確に見ていたのだ。実は、正確に言えば、神の目においてはやり直す必要などはない。STAP細胞のように初期化されることは実に幸いなことなのだ・・・。

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