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エクレシアのあり方2-脱キリスト教せよ-

本日はまったりと外でランチと映画の日。最近、映画評を書いていないが、実はほぼ毎週観ている。年間50本は観たいところなのだ。

さて、いつもの再建主義の富井氏が面白いことを書いている:

神の法は、その多くが否定命令である。
「~してはならない。」という法である。
十戒のうち8つは否定命令である。
なぜならば、神の御心は、人を自由にすることにあるから。
「私の前に他の神々を置いてはならない」という否定命令は、それ以外であれば、神を自由に礼拝できるということだ。
朝起きて礼拝してもいいし、夜中でもいい。
日曜日でも月曜日でもいい。
海辺で礼拝してもいいし、山の中でもいい。
教会でなければ礼拝できないというわけではない。
人間は、勝手にいろいろな規則を作りたがるが、神はそうではない。
ある教会では黒服でなければ不信仰と思われるそうだ。
そのような規則は聖書にはないので、どうでもいいことである。
「教会には黒服で来なければならない」という肯定命令が増えるならば、次第に礼拝が形式化し、内容がどうでもよくなっていく。
規則はできるだけ少なく、伝統も、習慣も、無意味なものはできるだけ減らすべきだ。

いや、この点に関してはまことに同意だ。前にも書いたが、日本基督教団系では午前10時からの主日礼拝が正統であり、その他は・・・という向きもあるようだ。ま、何をどう信じようと勝手であるから御自由にどうぞだが、これがキリスト教なのだ。繰り返すがイエスが地上におられたときにもっとも敵対し、いのちの御業の障害となったのがユダヤ教。現在はキリスト教なのだ。

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」-John 4:21-24

救いはユダヤ人から来る、しかし、神は霊であるから例と真理による礼拝をする時が来ると。現在は御言葉と福音がキリスト教に閉じ込められている。しかし、まことのエクレシアはいつでもどこでも礼拝するのだ。まことに、いつやるの、今でしょ!・・・だ。

Comment

坂井能大

アーメン


…あ、昔は映画をよく観ましたが、最近はすっかりご無沙汰です(笑)

Luke

共鳴いただきサンクスです。忙しそうですね、そのうち一度飲みたいと思っています。ヨロシク!

  • 2014/02/26 08:00
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