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誰もみたことのない内海信彦展

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小生の同僚の内海信彦氏から招待状をいただいたので、昨日早速鑑賞させていただいた。久しぶりの銀座をカミさんとぶらぶらとしながら、Gallery Kを発見。

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この辺りにはけっこう小さな画廊が多いのだ。今回の作品群は同氏の20代の制作。モチーフはどう見ても現代的終末的光景だ。核爆発と津波と独裁者と被抑圧者たち。きわめてPropheticではある。アーチストは何か第六感的なものによって予知能力が備わっているのかもしれない。同氏のFacebookにて作品群と制作背景を垣間見ることができる。パンフの文章を少し紹介してみたい:

 1974年、21歳の頃、デモと集会、ジャズと映画そしてデートに明け暮れて法学部を中退し、美学校中村宏油彩画工房で2年間、中村宏先生にシュルレアリスムとフランドル技法を学びました。その後、革命前のイラン、トルコ、エジプト、イタリアに行きました。ペルセポリスに行き、天から矢が降ってきて頭頂を貫き、芸術家になるんだと思ったのが25歳だったか。帰国した日に美大受験を思い立ちましたが入試は終了、しかたなく25歳で予備校に入り毎日辛い思いでフランドル技法をアレンジし、単発受けた多摩美油画科に入りましたが、再びやめたはずのデモを入学式の日から再開し、授業にはほとんど出ずに、ちょうど金芝河や金大中の死刑阻止、光州事件連帯など集会、ハンストに明け暮れて、在学中に出版社に入り「季刊クライシス」というハードな雑誌編集を任されて、絵を描く時間があまりありませんでした。卒制も「季刊クライシス」の創刊号を担当教授に渡し、キミこれ本だろみたいなことを言われながらも、教授会で名指しされ、あいつは早く卒業させないと何をするかわからないと言われ、強制卒業させられました。卒業後は出版社で週7日一年無休で突っ走り、3年で先端恐怖症になりダウン氏、自他共に不満退職しました。そして吉田克朗さんと運命的に出会い、3年目にアシスタントにしていただき、作家として何とかやっていく基本を教えていただきました。
 今回の作品は多摩美在学中までの20歳代限定です。誰もみたことのない野性時代の内海信彦です。

それにしても銀座通りを1丁目から4丁目までゆっくり歩きながら往復したが、この通りは格別な雰囲気があって、歩くだけでも楽しいのだ。ちなみに寿町のおっちゃんたちにはバブル時代、この辺りの裏道で生活していた人もいて、高級料理店の裏には折詰で残り物を置いてくれるのだそうだ、掃除と引き換えに。あるラザロさんに聞かれたことがある、「先生、コブシメの寿司飯食ったことありますか~」と。もちろん、ない。いや、彼らはこんな高級食材を味わっていたわけで、糖尿病や痛風を患っているラザロさんもいるほど。

そう、往年のベンチャーズの曲。和泉雅子が実にかわいい。小生、小学校4年頃だったが、「ペーブメントに寄り添う影が重なる時初めてのキス・・・」の歌詞にトキメキを覚えたものの、ペーブメントって何だ?という疑問が大人になるまで残っていた。皆さんはご存知でしょうか?ペーブメントって・・・

ちなみに上の写真は和光堂の時計台。銀座のシンボル的存在だ。で、これは知る人たちぞ知るイルミナティカード。この崩壊する時計台って?

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