Entry

トップ > 信仰 > 荒野に宴をもうけ

荒野に宴をもうけ

ファイル 4191-1.jpg


ウォッチマン・ニーの黙想


 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。-ルカ7:23

 バプテスマのヨハネはこの言葉が好きではありません。彼はエリアが証ししたような新しいリバイバルを求めておりましたが、今ここでは牢獄の中で差し迫った死の宣告を待っているのでした。もし彼自身が何も達成し得なかったとしたら、イエスご自身が第二のエリアとしてその務めを全うすることになるのでした。
 私たちも神がなすべきと自分で感じたことを神がなさることがなかったとしたら、神に対して憤ることでしょう。私たちは神の御旨を知ろうと努め、神ご自身の栄光を求めますが、神のなさることにおいて、多くの場合、失望を経験させられるのです。私たちはある種の窮地に立たされ、そこから脱出する術がまったくないことがあります。あるいは病気にかかり、神に癒しを求めますが、癒されないこともあります。あるいは経済的に困窮しても、カネが与えられないことがあります。あるいはもっと悪いことに、神ご自身の栄誉が窮地に立たされるような場面に直面することもあります。神はご自身の御名のために来られるべき なのですが、しかし神はそうなされません。状況は変化することなく、獄も開くことなく、人々の心が解かされることなく、誰も「主よ、私はどうすべきでしょうか?」と尋ねる者もありません。
 ある日、あらゆる事柄が明らかになる日が訪れます。裁きの座の前に立つとき、私たちが裁かれるばかりでなく、神は私たちに事情を説明されるでしょう。多くの事において、私たちが正しくなかったことが証明されるでしょう。しかし、また多くの事柄において、神は言われることでしょう、「わたしは正しかったが、あなたもまた正しかった」と。

Access: /Yesterday: /Today: