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老子第四章

 道は沖(ちゅう)なれども
 これを用うればあるいは盈(み)たず
 淵として万物の宗に似る

 其の鋭を挫き、其の粉を解き
 其の光を和し、其の塵に同じくす
 湛として存するあるに似る

 われ誰の子なるかを知らず
 帝の先に似たり

[訳]
 「道」はからっぽで何の役にもたたないようであるが、そのはたらきは無尽であって、そのからっぽが何かで満たされたりすることは決してない。満たされているとそれを使い果たせば終わりであって有限だが、からっぽであるからこそ、無限のはたらきが出てくるのだ。それは底知らずの淵のように深々としていて、どうやら万物の根源であるらしい。
 それは、すべての鋭さをくじいて鈍くし、すべてのもつれを解きほぐし、すべての輝きをおさえやわらげ、すべての塵とひとつになる。
 それは、たたえた水のように奥深くて、どうやら何かが存在しているらしい。
わたしはそれが何ものの子であるかを知らないが、万物を生み出した天帝のさらに祖先であるようだ。-金谷治、『老子-無知無欲のすすめ-』、講談社学術文庫

空っぽであることは幸いだ;霊の貧しい者は幸いだ(Matt 5:1)。自分自身にあって満ち足りている者はたちまちに消費する。自分自身にあって富んでいる者はわざわいなのだ。万物の根源たる方をその空っぽの霊の中に招くこと。そこから生ける水が川々となり流れ出る(John 7:38)。まことの知恵は自らの鋭さを隠すもの。また自分自身のギラギラした輝きをおさえ、むしろ塵と等しくなるもの。それはたたえられた水のような深みを生む(Ps 42:7;Eccl 18:4)。それは万物を生み出した天帝の祖先なのだ。

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