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道元の『正法眼蔵生死』、基督版(再)

朝、緑の森の中をフィトンチッドを浴びて、新鮮な陰イオンをたっぷり吸い込みつつ、もちろん霊の息もだが、ジョギングを楽しんだ。その後の風呂とシャワー、そしてストレッチがまた気持ちイイ!ちなみに最近、森林浴でNK(Natural Killer)細胞が活性化するとの報告がある:

さて、かねてより、私の本でも、ここでもこの前のBlogでも、道元を取り上げてきた。彼は仏教界、というよりは禅におけるウォッチマン・ニーとも言える、ある種の天才だ*1。その『正法眼蔵』は彼の思想と言うより、生き様の集大成と言える。その「生死」のキリスト・バージョンはこちらで紹介した

前回のメッセージに関連して、再度、「生死」に触れてみたい。

ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、ほとけの家に投げ入れて、仏のほうより行われて、これにしたがいもていく時、力も入れず、心も歎費(つい)やさずして、生死をはなれて、仏となる。

要するに自己を放擲(てき)して、自己を忘れ、仏の家に委ねてしまうとき、仏の方から作用がなされて、ただこれに従いゆくとき、力も消耗せず、心も浪費することなく、生死の二元論的世界を離れて、仏となる、というわけ。まさにニッポンキリスト教的クルシチャンに対する処方箋である。ここの「仏」を御霊あるいはキリストに読み代えれば、見事にローマ書8章となる。これが二千年前にイエスの十字架で、イエスの死と共にすでになされた自己の死の実体化である(Heb 11:1)。老子的には無為自然に生きること。ここに私たちの意識作用が入るとたちまちこんがらがって、クルシチャンができあがる。ああしたらよいか、こうしたらよいか、自我を殺すため徹夜で祈るとか、断食するとか、難業苦行するとか・・・。もっと言えば、十字架を負うとか・・・。その意味を外して空回りする。パウロもこう言っているではないか:

もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。
これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。 -Col 2:20-23

そのような心のやりくりこそ、自分を自分で救うむなしい努力であり、主の十字架を無効と宣言するものなのだ。対して、信じた者は安息に入る。かくして私は言うのだ:キリストにある怠惰を楽しめ、と。

さて、今晩は・・・・。

Ok、エヴリバディ、ハヴ・ア・ナイス・ウィークエンド!!!

*1:禅も老子もキリストの真理の型、影である。ついでに言えば、堕した葬式仏教はキリスト教の型でもあろう。

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