Entry

トップ > 信仰 > 荒野に宴をもうけ

荒野に宴をもうけ

ファイル 4417-1.jpg


ウォッチマン・ニーの黙想


 この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。-1サムエル1:27

 ここのふたつのフレーズに気がつきましたか?私にとってそれらはきわめて尊いものです。一緒にお読みしましょう:「主はかなえてくださいました・・・それで私も主にお渡しいたします」。彼女は嘆き悲しみつつ息子を主に祈り求めました。そして彼女の願いはよしとされたのです。祈りに対する答えで、これ以上のものがありましょうか?彼女の求めのすべてはこの子でした。しかし、今、その願いの中心であった子を得ると、彼女はその子を与えてくださったお方にお返しするのです。彼女の手からサムエルが捧げられると、このように書いてあります:「こうして彼らはそこで主を礼拝した」。
 私にも、ハンナに訪れたように、その日が訪れるでしょう。私のサムエル、私のすべての希望が凝縮している存在、それが私の手から神の御手に渡される日です。その時私は、礼拝とは何か、その真の意味を知るのです。すなわち礼拝とは十字架を経過した後に続くものであり、そこでは神のみがすべてのすべてとなるのです。私たちが大切にしていたものがすべて私の手からこぼれ落ち、私たちの焦点が自分自身から神へと移る時、それこそが礼拝なのです。

Access: /Yesterday: /Today:
{literal} {/literal}