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日々キリストのうちに

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ニール・アンダーソンによる黙想


 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。-マタイ6:34

 神に信頼することは私たちの存在価値の問題です。イエスは「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタイ6:26)と言われました。鳥は神の形に創造されてはいません。私はいます!鳥は神の国を相続しません。しかし、私たちはするのです。鳥は永遠の存在ではありません。人類は永遠なのです。神が空の鳥を顧みて下さるのであれば、私たちのことは尚更です。この故に使徒パウロは断言することができました:「私の神はキリスト・イエスにある永遠の富に従って、あなたがたの必要を満たして下さる」と(ピリピ4:19)。
 マタイ6:30,31ではこう言います:「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」。神はご自分の尊厳をここに賭けておられます。私たちが信頼して従えば、神は備えて下さるのです。これは神の峻厳さの問題です。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。・・・だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」。
 神の御旨は私たちが今日という日に責任を持って生きること、そしてあすに関しては神に信頼することです。私たちは小さな信仰の者たちでしょうか?それとも地上の所有物よりも御霊の実の方がはるかに満たして下さることを信じる者でしょうか?私たちが義に対して飢え乾きを覚えるならば、私たちは満たされることを真に信じているでしょうか?神の国を設立することを追求するのであれば、神はご自身の富に従って、栄光の中で私たちのあらゆる必要を満たして下さると真に信じているでしょうか?もしそうならば、まず神の国と義を追い求めしょう。そうすればその他の物はすべて添えて与えられるのです(マタイ6:33)。

 感謝します、主よ、こんなにも私のことを真実に顧みて下さることを。私は喜んで自分の心配事をあなたにお委ね致します。

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