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モーセ律法はどうなったか?

再建主義の富井さんが相変わらずこう訴えております:

モーセ律法は成就したので無効になった?

ディスペンセーショナリストやフルプレテリストたちは、モーセ律法は成就されたので無効化した。それゆえ、我々はモーセ律法に縛られない、と説くが、これは奇妙な議論である。

イエスは、モーセ律法を完全に成就された。律法を完全に守り、ご自身が祭壇の上で犠牲となり、神の義の怒りを受けられ、人間の身代わりに裁かれた。

しかし、モーセ律法を完全に成就したから、「我々はモーセ律法に縛られない」と結論するのはいかがだろうか?

いや、ほんとに「善悪の道の平面」と「いのちの道の平面」を見ていないとこうなるわけです。

律法は善悪の道の上で、アブラハムに対する約束の後430年後に付加的に与えられたものであり、アブラハムの約束を無効にしません。アブラハムはその約束を信じたので義とされたのであって、律法を行ったからではありません。そしてその約束は「(単数形!)」の約束であり、アブラハムはそのであるイエスを待ち望んだのでした。約束のはモーセ律法に勝る方なのです!

このイエスはいのちを与える霊として御霊によって私たちの内に住まわれ、いのちとなり、そのいのちの御霊の法則に従う時、自動的にモーセ律法は満たされるのです。私たちは救いを得るのも信仰により、歩みもまた信仰によります。それは約束のをいのちとする生き方です。

かくしてモーセ律法(MS-DOS)はレビ系の祭司制度の下の不完全なものであり、いのちを与えることができず、廃止されました。が、その上位互換ヴァージョンであるメルキゼデク系の祭司制度の下のいのちの御霊の法則(Windows)が導入されたのです。その中にはおのずとモーセ律法を満たすパワーがあります。Windowsを使うとき、意識せずとも自然とMS-DOSも使っているのです!いのちの御霊の法則に乗るとき、自然とモーセ律法の要求を満たしているのです!

思い(mind)がある種の思想や神学でくらまされると、この単純なことが見えなくなるわけです。しかし私は彼を大いに評価しております。今日、こういう純粋で真っ直ぐで骨のあるクリスチャンは少ないのです。ニッポンキリスト教に対する評価は大いに共有できますし、ヒューマニズムとニューエイジに犯されつつある教界を彼と共に憂うものです。願わくは、彼が大いに祝福されて、思い(mmind)が開かれ、単純な真理を見出す事ができるように祈りたいと思います。

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