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日々キリストのうちに

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ニール・アンダーソンによる黙想


 御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲を満たすことはありません(ガラテヤ5:16)。

 最初、クリスチャンになった時には、私たちはあたかも芝刈り機の1/3馬力のエンジンのようなものでした。私たちは何かを達成したかもしれませんが、十分に成熟していないためにそれは完璧ではありませんでした。クリスチャンとしての私たちの野心は地をも動かす機械、すなわち主のための力強い馬力のマシーンになることでした。しかし芝刈り機のエンジンであれ、ブルドーザーであれ、燃料がなくては何もできません。そのように私たちもキリストから離れては何も成し得ないのです(ヨハネ15:5)。あなたがいかに成熟していようとも、御霊によらなければ豊かな実を結ぶことはできません。
 肉に従って歩むか、御霊に従って歩むかの選択の場面に来るとき、私たちの意志はちょうどトグルスイッチのようなものです。幼いクリスチャンの意志はあたかも肉的行動へとバネじかけにより駆り立てられるようなものです。彼は神から独立して機能するように完全に条件付けられており、しかもその意識すらない犠牲者なのです。成熟したクリスチャンの意志は御霊へと駆り立てられます。彼はしばしば愚かな選択をしますが、しかし彼は日毎の生活において、肉を十字架につけることを学び、御霊によって歩むことを学んでいるのです。
 御霊による歩みをするための魔法の公式や安っぽいステップのリストを願うのであれば、あなたはただ失望を経験するだけでしょう。御霊に満たされることを、ひとつの公式に引き下げたり、知的な作業にしてしまうのであれば、もはや御霊に満たされることすら願わなくなるでしょう。
 聖霊は「彼」である方であり、「それ」という存在ではないのです。私たちの神と共なる歩みは個人的な経験であり、機械的あるいは儀式的な公式ではありません。私たちは肉的な耽溺による不道徳をあちこちで見聞きするでしょう。しかしそれにただ反対することやそれを行わないように命じることは神の解答ではありません。律法はいのちを与えないのです(ガラテヤ3:21)。信者に律法を再提示しても何の役にも立ちません。しかし御霊によって歩むことを学ぶならば、私たちは肉の欲を満たすことを願わなくなります。このことを他の人々にも奨励するのです。

 主よ、あなたが私に対して忍耐づよくあられるように、私も他の人々が信仰による歩みをするために忍耐づよくあれますように。今日、人々に対して恵み深く応え、また優しい回答をすることができますように。

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