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なぜミラクルを経験する人としない人がいるのか?

これは、実は、長年にわたる私の疑問だった。神は創造主、ゆえに自然法則を超えて働くことはできる方。だから奇跡もあり得る。・・・とここまでは私も信じていた。が、それが自分や周囲においてなされることはどうしても信じ難かった。事実、愛する兄弟姉妹が次々に癌で召された。私は癒しを祈る勇気も失っていた。奇跡などは使徒時代までだろう、とか理由をつけて。リベラルの人はマリアの処女懐妊すら信じない。異言ももちろん信じない。それは廃れた、と。私たちは異言は自由に経験している。すると奇跡は使徒時代までとすることには一貫性がなくなるのだ。つまり自己矛盾。・・・うーむ。

しかし、今回は迫られた、「イエスと同じ業をなし、さらに大いなる業をなすことを信じるか、イエスかノーで答えよ」と。こうなると理屈では逃げ切れない。神がガチで迫るのだから。もはやひれ伏すしかないのだ。かくして先週の金土日の事態が展開した。今、ようやく耳が聞こえることに喜びを覚え始めた。昨日までは実感が湧かなかったのだ。確かに聞こえるが、何か他人事のように感じられていた。女性ボーカルはほとんど聞こえなかった。Diana Krallが好きな私にはかなり悲しい事だった。それが今は聞こえる、WOW

そこで表題の疑問に対する回答だが、このみ言葉が与えられたところだ。

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。-John 16:12-13

そう、すべての神の国の事実を実体化してくださるお方は聖霊だ。私たちの心が聞くに堪えることができるようになる時、聖霊がそれを実体化(substanciation)してくださる。まことに

信仰とは、望んでいる事柄を実体化し(あるいは、実体)、見えない事実を確認することです。-Heb 11:1

それは聖霊が御言葉(ロゴス)をレーマとして語ってくださるとき生まれるのだ*1

実に、信仰は聞くことにより、しかも、神の言葉(Gk.レーマ)を聞くことによって始まるのです。-Rom 10:17

*1:Logosは事実を説明する客観的な言語、Rhemaは聖霊が私たちの霊に語ってくださる主観的なことば。それを聞くとき、必ずしも知性は同意あるいは理解できなくとも、霊で聞いたことはどうしても否定できないのだ。ここで霊と魂の分離が起きる。自分の中である種の困惑も生まれる。この感覚が極私的には「まじかよ」とか「やばい」となるのだ。

Comment

まこ

お証感謝です。
感慨だけお聞きしていたので、不完全燃焼で、もっと核心的なことを聞きたいとなります。
お証してくださるのをお待ちしておりました。
ハレルヤですね。

  • 2014/12/25 19:53
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Luke

はい、こうして自分に起きたことを整理しつつあるわけです。まだほんの一部で、大いなる困惑が残っておりますが・・・。とにかくやばい・・・。

  • 2014/12/25 20:13
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電気屋

世にいう所のクリスマスの日のお証感謝です。


「...ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」

ルカによる1章29より抜粋

  • 2014/12/27 14:17
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Luke

あ、どうもです。「ひどくとまどって」-まことに私の状態であります。イエスが出現されるところでは、とまどいが起きるようです。

  • 2014/12/27 16:40
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