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日々キリストのうちに

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ニール・アンダーソンによる黙想


 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう(創世記1:26)

 アダムは肉体的にまた霊的に生きる者として創造されました。彼は最初の息から永遠のいのちを得て、エデンの園で神の臨在を享受していました。(訳注:この永遠のいのちとは死ぬことのないいのちの意味)
 さらに、神聖な本能によって生きる動物の王国とは異なり、アダムは思い、感情、意志を持つ神に似た者として造られ、自分で考え、感じ、選択することができました。他の被造物はそのような存在ではありません。
 アダムを造られた後、神は言われました、「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2:18)。そこで神は彼にふさわしい助け手を創りました、それがエバです。彼らは共に神に属する感覚を享受し、また互いを楽しんでいました。それのみでなく、神は彼らに目的を与えられました。「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」と(創世記1:26)。アダムとエバは自分の尊厳を探す必要はありませんでした。彼らはそれを神との関係において保有していたのです。神が彼らと共におられたゆえに、彼らは完全なる安全と保証の内に生きていました。
 永遠のいのち、アイデンティティ、目的、尊厳、安全、そして所属の感覚は、神の形に造られた人類の属性のすべてです。アダムとエバはこれらの属性を最大限味わっていましたし、また私たちもそれらを享受し得る運命にあるのです。しかしアダムが罪を犯したとき、彼は霊的に死に、神が備えて下さったすべてを失いました。神から切り離されて、アダムの輝かしい属性は人が切望する必要となってしまったのです。
 アダムの子孫として神から切り離されて生まれた私たちは、これらの必要を抱えてこの世に生まれました。私たちは人生を通して、自分の名声を獲得すべく奮闘し、一時的な物に自分の安全を担保しようとし、また神から離れて尊厳を獲得しようとします。それは絶望的なもがきなのでしょうか?違います!私たちはこのような必要を、キリストへの信仰により、神との個人的な関係によって確立できるのです。罪を犯す前のアダムがエデンの園で享受していたすべては、今や私たちの手に入るものとされたのです。

 愛する天の父よ、私が永遠のいのちを得るために、私の罪のためにイエスを遣わしてくださったことを感謝します。また、キリストにあって私のアイデンティティ、尊厳、安全、そして所属の感覚も満たされることを感謝します。

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