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それぞれの信仰に従って

主イエスと私たちの関係の原則は信仰。長血を患う女も、バルテマイも、らい病人も、百人隊長も、ツロ・フェニキアの女も、みな自身の信仰によって願うものを得た。あの富んだ若者のように、あるいは律法学者のように、どんなに自分の資質や善行や功績をアピールしても無意味。エターナルライフ(EL訳と略す)によるTRからの訳にはこうある:

さて、信仰は、望んでいることの実体、目に見えないことをあばくことです。-Heb 11:1

岩波訳では

信仰とは〔私たちが〕希求している事のであり、見えないものの証明である。

そしてこの「基」について注があり、1章3節で実体と訳した語とある。それは

彼は神の栄光の反映、〔神の〕実体の刻印であり-Heb 1:3

WOW! 信仰は実体、キリストが神の実体の刻印であるように、信仰は私たちの希求していることの実体なのだ!つまり信仰を持つことはその実体を持つことそのもの。今、目には見えないが、いずれあばかれる、すなわち時空間の中に出現する(証明)。またマルコ11:22では主はこう言われる:

するとイエス様は答えて彼らに言われた。「神信仰を持っていなさい。なぜなら、まことにあなたがたに言いますが、この山に、『取り上げられて、海に投げ込まれよ』と言い、自分の心で疑わず、自分が言っていることが起こっていると信じる人は、その人が言ったことがその人に成るからです。それゆえ、あなたがたに言います。あなたがたが祈って求めているどんなものでも、受け取っていると信じていなさい。そうすれば、それはあなたがたに成ります」。-Mark 11:22(EL訳)

信じるのではない、神信仰を持っていること。これはガラテヤ2:20でも言える。

今、肉にあって生きているのは、御子信仰によって生きるのである。-Gal 2:20(私訳)

永井訳ではこうある:

されどわれ今肉にて生くるは、我を愛し給い、且つ我がために己自らを付し給いし神の子信仰に在りて生くるなり。

これをある人はアセンディングとディセンディングと表現している。私たちはキリストと共に天の座についている。体は地上にあるが、霊はそこにいる。その臨在に入ることがアセンディング。そしてその霊的領域で祈りに対する神の回答を得る。それは幻を見たり、御言葉を聞いたりして、内側で分かる、「得た」と。それを地上に現出するように、イエスの名により語る、あるいは、命じる、のだ。イエスが癒しをなさる時にはすべて命じた。嵐に対しても。これがディセンディング。この過程はちょうどベテル(=神の家)で天使が梯子を上り下りしていたように。

このことをラザロの復活で主イエスは見事にデモンストレーションされた。彼はすでに父が願いを聞いて下さったことを把握し、ラザロに命じた。彼はラザロが出てくる前にそれ(=実体)を得ていたのだ!彼にとってはその実体をすでに得ていたから、後は命じるだけだったのだ。そこに切断はない!人の目(地的)にはラザロが物理的に死んでいた時点でも(事実)、主の(天的)信仰においてはラザロは生きていたのだ(真理)。父に願った時点から!なぜなら父は常に自分の願いを聞き入れて下さると知っていたから。その信仰を持つのがクリスチャンだと言うわけ。だから信じる者はご自分と同じことができる、と主は言われるのだ。WOW!

やっぱり、やばい・・・

Comment

shige

アーメン、霊にとってはあまりに単純な御言葉も、人の知性には驚異ですよね。信仰を持ってはじめて触れた時の御言葉から受けた印象がよみがえってきます。やばいです。

  • 2015/01/04 23:00
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Luke

おっしゃるとおりです。あの3日間の現象以降、私もあの当時の感動と困惑を改めて味わっているところです。

  • 2015/01/05 07:12
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