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「派」の起源―認知のフレームと内的世界モデル

ニッポンキリスト教(に限らないが)にはメインライン(日本基督教団系)、福音派、聖霊派・カリスマ派*1・・・と種々の「派」がある(カトリックはとりあえず別扱い)。メインラインから見ると現代における聖霊の働きすら拒絶され、福音派にはかつてカリスマ条項なるものがあって、聖霊派・カリスマ派と一線を画していたようだ。

かつて主イエスが「わたしの血を飲み、肉を食べる」と言われると、「誰がこんな言葉を聞いておれようか!」と人々は叫んだ。主ご自身も弟子たちに対してすら、「あなたがたは今は聞くに耐えられない」と言われた。復活の後ですら、弟子たちは心の鈍さのゆえに、主を認められなかった。これらはすべて主の御業が私たちの認知のフレームと内的世界モデルに収まり切れない故である*2

私たちは自分の世界観(モデル)や認知のフレームから外れる事には必ず拒否感を覚える。なぜならそれは自分自身の在り方、つまりアイデンティティーを脅かすからだ。そこで情報を取り込むとき、無意識的に認知の選択的透過(取り込み)を行う。自分にとって脅威とならない部分だけを選び取るのだ。聖書に対しても同じ。御言葉をも自然と取捨選択したり、あるいは認知のフィルターをかけて自分にとって脅威ではなくなるように"解釈"した上で取り込むのだ。同じ傾向の人々が集まり、いわゆる「派」が誕生する。要するに「派」は単なる認知行動科学的現象に過ぎない*3

今回、私自身がそれを行ってきたこと、ゆえに聖書も神の力も知らないことに気が付かされた。で、聖書の御言葉に生のままで向き合ってみると、これがこのところ繰り返している、やばい、となるのだ*4。天を地に下ろすように祈れ、と主は言われている。究極的には新エルサレムは小羊との結婚のために地上に降りてくるのだ(Rev 21:2)。現在はその前味わい、あるいは前哨戦と言える。自分が聖書をどのように読み、どのように取り込み、どのように自分の血肉にしているか、私はこのところずっと問われ続けている。それはあたかも積木崩し。賽の河原の石積みだ。かくして思い(nous)のトランスフォーメーション(メタモルフォーゼ)に与っているわけだ(Rom 12:2)が、このところ妻にもインパーテーションされたようで、彼女もしきりに聖書はやばい、やばい、と言い出している。

果たして私たちはどこへ向かっているのだろうか?主は私たちをどこまで連れて行こうとされるのだろうか?すでに賽は投げられ、ルビコン川ではなく、ヨルダン川に足を踏み入れてしまったのだ。要するにもはや神の御手から逃げられない。

*1:聖霊のバプテスマに異言が伴うか否かで、この二つも微妙に異なるらしい。
*2:あの3日間に私が経験した事象、見たり・聞いたりした内容も相当に外れている。私自身が消化し切れていないのだから。このような場合、人はそれを異常心理現象あるは変性意識現象として自分の認知のフレームを通過させ、内的世界モデルに組み込もうとするのだ。
*3:しかし、アイデンティティーに関わるゆえに極めて強固になり、その自己防衛機制も強力なものとなる。
*4:誤解を恐れずに言うが、幸福の科学や創価学会の書籍の方がよほどまともなことを語っている。

Comment

電気屋

「このところ妻にもインパーテーションされたようで」

形、内容は違っても2012年末私の古く頑なな魂が割れた時、家内にもほとんど同時に分与されてことばを用いて説明しなくとも、既に彼女が私が得たモノと同じモノを半自動的に得た事に主の取り扱いの不思議さに感謝した事を思いだしました。

素晴らしいですね。

  • 2015/01/06 21:31
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Luke

あ、どうもです。素晴らしいと言ってくださいまして感謝です。実は当事者は、聖書はやばい・・・でして。聖書が動画のようにリアルに動くわけです。これを彼女も感じるようなのですね。異言の経験などはけっこう異なるのですが・・・。

  • 2015/01/06 21:42
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  • 2015/01/07 00:08
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Luke

はい、皆さんとはぜひ交わりたいと思います。よろしく!

  • 2015/01/07 07:10
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