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奥義としての聖霊なるお方

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。
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イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
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しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。-John 14:16-26;16:13-15

聖霊はイエスとは別の*1助け主。この方が来られるとき、御父とイエスがその人のうちに住まう。またすべての真理に導き入れ、イエスの栄光を現す。父から受けたイエスのすべてを知らせるからだ。

・・・つまりイエスの血潮の効力も、キリストと共なる十字架の死と復活も、天の処への着座も、神がキリストにあって成就されたすべての霊的事実(真理・リアリティ)も、御言葉に証された神の信仰の成就も、ゆえにそれに含まれる私たちの信仰の成就も、すべて聖霊による。ゆえに

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。-Eph 4:30

どうもこれまで、このお方、聖霊に対してデリケートな関わりをしていなかったようだ。というか、ほとんど無神経であった*2。あたかも種々のアプリケーションを華々しく活躍させる舞台のOSのように、ご自身はご自分を主張することがない奥義的なお方なのだ。しかしこのお方がおられないならば、神の業は何も現れない。しかも明確に人格を持たれるお方、ひとりのパースンだ。あえて自己主張をなされないお方ゆえに、なおさら悲しませてはならない。あの3日間以来、父がものすごく親密になり、神に手で触れる感じがする。内にいますお方としてだけではなく、外側的にも何かに包まれている感覚が絶えず消えない。そう、「キリストのうちに」とは聖霊に包まれていることなのだ*3

*1:Note also that the word another is αλλον, and not ετερον, which means different. The advocate who is to be sent is not different from Christ, but another similar to Himself.(Vincent)
*2:しかし、よくここまで見捨てることをされず、悟りの遅いものを忍耐強く導いてくださった。
*3:御霊と人の関わりは旧約と新約では決定的に異なる。"on"と"in"の相違と言えるが、私はこれまで"on"についてはやや薄かったと感じている。→「御霊と人の関わりについて―油注ぎ(on)と油塗り(in)―

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